imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 福島県白河への小旅行 2023年11月

3日休みが取れたので、2泊の旅行に行ってきた。

 

行き先は「白河の関」で有名なあの白河である。

 

去年の秋、江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮れ、春立てる霞の空に、白川の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、、、

奥の細道 序文より)

 

今回初めて知ったのだが、白河の関は、江戸時代にはすでに使われず、忘れ去られた場所になっていたようだ。それを寛政の改革で知られる白河藩主、松平定信が文献などを参考にして1800年に場所を特定し碑を立てた。

 

白河は江戸を発した奥州街道の最終宿である。もちろん白河以北も続いているが、幕府道中奉行の直轄地が白河までだったようである。

 

JR白河駅北側に白河小峰城が位置し、駅南側にこじんまりとした旧市街が広がる。駅から南西に2キロ離れたところに新幹線の新白河駅があり、こちらがビジネスホテルの多い新市街になっている。

もちろん旧市街が趣きがあって面白い。木造の古い商家も残っている。

城防衛のために集められた寺が、城下町南側の阿武隈川支流の谷津田川沿いにあり、寺町を帯状に形成している。今となってはそれがゆとりある空間を作り出している。

各寺の参道には高木のスギ、イチョウが並び、それが独特の景観を与える。

 

国内旅行をするとき、私はしばしば夜行バスを使う。朝に現地に着くので、一日が有効に使えるからだ。しかし白河は近すぎて夜行バスが無かった。東京から3時間半しかかからない。朝一のバスに乗って昼前に着いた。ホテルのチェックインは4時からだったので、少し重い荷物を持って初めての街をうろついた。どんな宿かもわからず、知らない街を荷物を抱えてうろうろし、睡眠不足も手伝って、少し心細くなった。

そういえば、外国旅行を始めた時もこんな気持ちだったな、ということを思い出した。 新しい宿に着くまでの間、どんな人が相部屋にいるのか、どんな人が受付にいるのか、パブリックスペースは落ち着けるのか。そういうことが気になって毎回不安になったのである。これではむやみに消耗するだけである。

で、以下のように考えて、私はそれを乗り越えた。

未来に焦点を合わせるから、未来に目的を持つから、今ここが未完の、不安定な、心もとない空間になる。今ここに焦点を合わせる。今ここが満たされていれば、それがすべてである。この後はこの後でどうにでもなるだろう。未来は、満たされた今の連続で作り出していけばよいのである。

これ以降、外国旅行で不安になることはなくなった。

 

 

以下は、私の雑感である。

 

◎ 無料の公共施設が多い。白河市歴史民俗資料館や脇本陣蔵屋敷、1991年に木を使って再建された天守閣(実際は三階櫓)。駅前にある図書館も広く使いやすそうだ。かっては城内だった駅前は広い芝生広場になっている。駅の観光案内所では無料でママチャリを貸し出していた。

市の財政に余裕があるのかもしれない。

 

市の人口は2000年の6.6万人をピークに2023年では6万人弱に減少している。つまり住宅地に余裕が出てきている。町なかにも関わらず広い敷地の家が多い。交通量も旧街道沿いこそ多いが、それ以外は閑散としている。つまり住環境が豊かである。

 

新市街にコンビニが集中していて、旧市街には今のところ駅前に1件あるだけである。地元商店を大切にしているのだろう。イトーヨーカドー系のスーパーが一軒あるが。

 

標高300メートルほどで、8月の平均最高気温は28度前後、平均最低気温は20度前後と過ごし易そうである。が、今年の夏は33度の日が1か月続いた。

 

横断歩道や交差点では歩行者である私にこちらが恐縮するほど車はきちんと停車した。大都市では交通マナーは守られがちだが、小都市の白河でも守られていることに驚いた。日本も交通先進国になったのかもしれない。

 

つまり白河は住み易そうである。冬の平均最低気温はマイナス3度なので、寒そうだが。

 

◎ 東京では都条例で駐車場でのアイドリングは禁止されているが、福島県はそれが無いようで、駐車場でアイドリングをして中で休憩している車をよく見かけた。初日、駐車場の真ん中でぽつんと一台だけアイドリングをしている車があったので、幼児かペットでも置いて買い物でもしているのかと思って近づくと、大人が寝そべってスマホを触っていたので驚いた。相手も驚いたようだが。

 

◎ 江戸時代、白河藩主はしばしば配置替えがあり、丹羽家から始まって、併せて7家が入っている。しかも最後の数年は天領である。姫路藩もそうだが、頻繁に藩主家が交代する藩があるが、なぜこんなことをするのだろう。これではしっかりとした予定を立てて経済を安定させ、豊かな国づくりが出来ないだろう。懲罰や力を削ぐために配置替えが必要で、それ用の藩が用意されていた、ということなのか。だとしたら、領民はとんだ迷惑だったろう。

 

◎ 近くに白河石と呼ばれる安山岩質凝灰岩の石の産地があり、家の塀や倉、石垣に多く使用されている。凝灰岩とは、火山が噴火した時の堆積物である。柔らかいので切り出しやすく、東京でも昔の家の塀によく使われている。

白河小峰城の石垣にも使用されていて、その説明の看板を見た時、私は信じなかった。高く積み上げて荷重のかかる城の石垣を、柔らかく、風化しやすい凝灰岩では作れない。普通は花崗岩安山岩で作る。大阪城花崗岩を使っている。が、帰ってから調べると、本当のようである。最初に石垣を積み上げた時、その耐久性に自信が無かったろうと思う。

 

◎ 11代将軍徳川家斉のとき幕府の老中首座として寛政の改革を行った白河藩主、松平定信はどうもスーパーマンのようだ。日本で最初の貴賤を問わずに憩える公園「南湖公園」を藩内に作り、洋学への関心から日本最初の蘭日辞典を編纂し、江戸では幕藩子弟のための昌平坂学問所を創設し、白河では藩士子弟のための藩校を創設、また平民子弟のための郷校も設立した。

光圀の「大日本史」からかなり遅れてはいるが、藩の歴史書も編纂している。

和歌にも長じていて、平安時代能因法師が詠んだ「都をば 霞と共に 立ちしかど  秋風ぞ吹く 関の白河」を踏まえて「白河の 席次の跡を 訪ぬれば  今も昔の 秋風ぞ吹く」を残している。南画も好くし、妙にリアルな達磨大師像が伝わっている。

もちろん藩政改革、幕政改革に功績を残した。

「白河の 清きに 魚の住みかねて 元の濁りの 田沼恋しき」の清き流れを作ったのは定信である。

 

辞世の句は以下である。

 

「今更に 何かうらみむ うき事も 楽しき事も 見はてつる身は」

 

私もそのように生きたい。