imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

生物はなぜ死ぬのか 生物・人社会・個人にとって効率がよいとは

先日、小林武彦著 ”生物はなぜ死ぬのか”を読んで非常に刺激を受けた。考えたことを書いてみたい。著書を意訳すれば以下の通り。

 

死とは、

1 エネルギーと体を作るための限られた材料を次世代に譲ること。

2 限られた生活空間を次世代に譲ること。

3 環境変化に、より多様性のある次世代に命を譲ること。

故に、すべての生物は死ななくてはならない。死は生命の連続性を維持する原動力であり、生まれた以上、次の世代のために死ななくてはならない。

 

以下考えたこと  生物・人社会・個人をいくつかのキーワードを通して考えた。

 

1 前提

 

地球上に存在するほとんどすべての有機物は、生物が膨大な時間をかけて無機物から作り出したものだ。具体的に言えば、細菌や植物が地球のミネラルを摂取して作り出してきた。私たちの体を構成している分子は、かって別の生き物の体を構成していた物だ。その意味で、私たちの体は、別の生き物の遺物でできている。

 

有性生殖をする生物、つまりオス・花粉とメス・雌しべの区別がある生き物は、現世代よりも次世代のほうが多様性がある。なぜなら次世代は現世代のオスとメスの遺伝子を半分ずつ受け継いでいるからだ。一部の細菌も接合によって遺伝子交換をして多様性を確保している。

 

地球が誕生して45億年、生物は約40億年前から存在する。その後現在まで、少なくとも数度はあったと考えられている全球凍結などの環境激変を経験しながら生物は存続してきた。環境の変化に対応できる多様性は決定的に重要だった。

 

2  多様性

 

すべての生物の細胞はリボソームを持っている。故に、すべての生物は一つの生物から進化した、と考えられている。

 

生物の最優先課題は子孫を残すことで、具体的には、より増殖すること、と考えられているが、上記の1前提から考えると、いくら増殖しても多様性の幅が狭ければ、環境の変化に適応出来ず、絶滅してしまう。つまり最優先課題は多様性を確保することにある。多様性とは、予測不可能な未来を生きぬく力とも言える。

では増殖と多様性はどうのような関係にあるのか。

細胞分裂するとき、遺伝子の複写ミスは、ある一定の割合で必ず起こる。故に増殖すればするほど、必然的に複写ミスが増加し、多様性が増大する。つまり多様性を増大するためには、その基となる本体を大きくしておく必要があるのだ。

 

一つの種の中で最も環境に適応した個体群は個体数を増やして種のボリュームゾーンを作る。例えばヒトだと身長や体重、知能指数、持久力、記憶力などのそれぞれで、偏差値50を中心にした部分がボリュームゾーンになる。そのボリュームゾーンから外れた周辺部が多様化した部分だ。

ではボリュームゾーンとその周辺とはどういう関係にあるのか。

 

多様性が最重要なら、ボリュームゾーンを薄くしてその周辺を厚くしたほうが多様性が大きくなって効率が良いのではないか。しかしそうならないのは、たぶんボリュームゾーンを薄くすると種の存続自体が維持できなくなるからだと思う。そう考えれば、ボリュームゾーンと周辺の関係は、ボリュームゾーンが崩壊しない限りの最大の周辺確保、多様性確保になっていると思う。つまりボリュームゾーンが多様性を生み出すゆりかごになっているのだ。

 

種の内側の多様性が、種と種の多様性を導いた。つまり当たり前のことだが、種の中に多様性があったからこそ、進化していろんな種を生み出していった。ヒトもその場所に立っている。つまりヒトも生物である限り、多様性が重要である。

ある一つの個体で見ても、ボリュームゾーンになっている部分もあれば、周辺に位置している部分もある。例えば人で言えば、身長は平均的だが、体重は周辺にある、というように。記憶力は平均的だが、関係の作り方は周辺に位置している、というように。

つまりある個人が中心から外れて、右往左往すること自体が多様性の一部、生物の多様性を支えている、と言える。周囲と上手くやっていけないことも、障害を持っていることも、生物としての多様性を支えている。個体が、ボリュームゾーンから外れてしまうのは、多様性を確保するために仕組まれた、遺伝子からの応答だ。

 

3  快追及

 

動物は、生き延びるのに有利な状態には快感情を、不利な状態には不快感情を作り出した。つまり個々の動物が快感情を追求すれば、もしくは不快感情を回避すれば、生存率が上がり、増殖して、多様性が確保された。

ところが私たちヒト、つまりホモサピエンスは、一万年ほど前に、貯蔵できる食物を発見した。穀物である。狩猟採集民は必要以上の獲物を狩らなかった。腐って貯蔵できないからだ。貯蔵できる食料つまり穀物の発見は、その後のヒトの行動を変えた。穀物を生産する農地は多ければ多いほど得になった。自然から必要以上の物を獲ってきて、穀物と交換して保存出来るようになった。自然からの収奪に際限が無くなった。それは以下の問題を導いている。

それまでは個体の快感情を追求すれば、結果として種の多様性が確保された。故に進化の過程で遺伝子はそのように刈り込まれてきた。ところが富の蓄積の可能によって、個体の快追及に歯止めがかからなくなってしまった。際限なく快感情を追求できるようになった。その結果、かっては社会の中での個人の快追及は、全体の快を向上させ、生存率を上げ、増殖し、多様性を確保していたが、富の蓄積の可能は、その時の環境に最も適応した個人たちの際限のない快追及によって社会全体の快を毀損し、多様性を毀損するようになった。さらには現世代の社会構成員の際限のない快追及は、次世代以降の資源をも消費してしまい、潜在的に次世代の存続の基盤さえ毀損することになっている。

個体の快追及が多様性を生み出す、と言う何億年も続いた、動物にとって当たり前の前提が、穀物の出現によって破壊されてしまった。フェイズが変わってしまった、と思う。



4 効率

 

個体と種の関係。

1)例えば遺伝子の交換である接合さえしない細菌、つまり細胞分裂だけで増えていく細菌がいるとしたら、隣にいる同じ種の細菌は何の得にもならない。多様性を生み出す遺伝子の交換もできず、有性生殖もしないので、やはり多様性を生み出す増殖の相手にもならない。人間が便宜上同じ種に分類しただけで、当該の個々の細菌にとっては、隣の個体は仲間でも何でもない。つまり個体にとって、種の壁は存在しない。世界には、その個体とそれ以外の生物がいるだけだ。

 

2)では有性生殖をする生物にとって、隣にいる同じ種はどういう意味を持つか。

1)) 交接することによって、次世代を残し、多様性を増大できる仲間。

つまり彼らにとっては、同じ種とその他の種は区別する明確な理由がある。

 

3)では人の場合はどうか。ある人から見て隣にいる同じ種はどういう意味を持つか。

上記の1)) に加えて、

2)) 役割を分担して協力することによって、生存率を上げれる仲間。

3)) 共感のやり取りができる仲間。仲間と役割を分担して協力し生存率を上げることが、社会を生み出したが、他人と一緒にいることは、他方でストレスを生み出し、社会を解体する方向に作用する。共感は、集団でいることのストレスを減少させ、集団を維持する方向に働く。集団を維持するために獲得された共感は、不快・ストレスを減少させ、そのこと自体が生存率を上げるだろう。義務で集団に参加するのではなく、自発的に参加する。

1)) は生物から見た種の意味、2)) と3)) は人社会から見た種の意味だ。なので人にとって、種の壁は高い。同種を大切にする理由は十分にある。

 

以上から考えれば、個体の存在目的が、種の繁栄(その含意するところは、他種の繁栄を毀損しても構わない)、となりそうだが、生物全体の進化から見れば、その基本設計は、個々の種が繁栄することではなく、つまり個々の種の多様性重視ではなく、生物全体の繁栄、つまり生物全体の多様性重視と考えて良いと思う。そもそも一つの生物から種が多様化したのだから、そちらのほうがより事実を説明すると思う。

だとしたら、富の蓄積可能以降のヒトの行動原理は、生物の基本設計を逸脱していると思う。

 

効率について。

1)生物から見て効率が良いとは、環境に早く適応した、または環境に最も適応した個体群が、早く増殖することによって早く多様性を確保することだ。

2)人社会から見て効率がいいとは、役割分担をすることによって、個体の生存率を上げ、結果としてより多くの社会構成員の生存率を上げ、多様性を確保することだ。例えば、どれだけ力の強い個人でも、一人でマンモスは狩れない。しかし協力することによって、巨大な食糧が手に入る。力が弱い個体も、力を使わない見張りなどの役割を分担することによって、食糧の分け前に参加し、生存率を上げられる。以上のことから効率の良い社会を考えれば、役割分担をして、より多くの構成員の生存率を上げること、になる。生存率を上げる、とは、具体的には、個々の個体の快を増やす、もしくは不快を減少させることだ。つまり人社会にとって効率がいいとは、より多くの人の快を増大させること、になる。言い方を変えれば、利他行為である。

役割分担の前提は、多様性があることだ。多様性があったから役割分担ができた。そしてさらに周辺に位置する多様な個体は中心から離れすぎて、役割に参加できないだろう。

分担する役割とは、その時のボリュームゾーンの価値に合わせたものだ。狩猟採集時代に分担される役割は、現代の企業で分担される役割とは全く違うだろう。狩猟採集時代には、さらなる周辺に位置して役割に参加できなかった個体が、現代では役割を果たす、ということが十分にあり得る。

3)個人から見て効率がいいとは、そもそもは役割分担をすることによって、全体の生存率を上げ、自らの快も増大させることだったが、富の蓄積可能によって、能力別に、つまりその時の価値に最適化した能力に従って富が分配されるようになった。富の蓄積の可能は、活躍した人ほど、多くの分け前を請求できる動機づけを与えた。富の蓄積可能は、不可避的に社会を拡大していく。結果起こったことは、社会構成員の顔が見えなくなったことによる共感の喪失、その結果の際限のない収奪だ。時代に最も適応した個体群による、社会周辺への収奪である。人社会から見た効率追及、つまり利他行為が、富の蓄積の可能によって、利己行為の追及に変化している。生物の基本設計である快追及が、富の蓄積可能によって、際限なく実行可能になって、人も含む生物への際限のない収奪を導いている。

 

5 個々の生の質

 

1)生物から見れば、個々の生の質は最優先ではなかった。最優先はもちろん、増殖し、多様性を確保することだ。

2)社会から見れば、役割分担によって全体の生存率が上がり、効率的に多様性確保が出来るようになった。一方で、社会からのストレスを減らすためにヒトは共感を獲得した。この結果、ヒトは困っている相手に自分のことのように手当てをする、余裕があれば相手にリソースを譲る、ようになった。このことが個の生の質の向上を導いたと思う。

3) しかし富の蓄積可能は社会を不可避に拡大していく。顔の見えない構成員の増加が共感を奪い、社会全体の個の生の質は低下していくことになる。

 

6  死

 

人間のことをクソ袋とか、ウンコ製造機と表現することがある。意味するところは、無駄に飯を食っている、ということだろう。

まずこのことを生物から見れば、すべての動物はクソ袋である。他の生物が作り出した有機物を摂食して生きている。生物から見れば、無駄に生きるということ自体が意味を持たない。全ての生物は多様性に寄与している。

では人社会から見れば、どうなるか。無駄に飯を食う、の意味するところは、社会の役に立たない、ということだろう。生物から見た人社会の最優先課題は、役割分担を通して全体の快を増大させる、そのことによって多様性を確保する、ということだ。周辺に存在して、時の価値に合わずに役割を分担できないこともあるだろう。その割合は遺伝子が決めている。なので、クソ袋・無駄飯食いも許容される多様性の一つだと思う。

無駄とは、今のボリュームゾーンの価値に合わないので役割分担できない、ということに過ぎない。

 

7  番外

 

進化

 

進化の具体的姿とは、どんなものだろう。

1) 琉球諸島にはハブの仲間が数種類いる。本島にはハブ、石垣島など先島諸島にはサキシマハブがいる。元々は同じ種だったのが、離島で交流が断たれた結果、別の種になった。これが進化の一つの型だ。一つの種が交流断絶により種を増やした。沖縄本島石垣島は、気候帯も同じ、土壌も、植生もほぼ同じだ。餌であるネズミやカエルも同じようなものだと考えれば、ほぼ同じ条件の下で、別の種が生まれたことになる。それは以下のことを導く。環境に最も適応した個体が増殖してボリュームゾーン・幹を作って、種の方向を決めていくが、環境が同じであっても別の幹が作られる可能性がある。進化の方向は一つではないのだ。生きのびる道は一つではない。つまり遺伝子の複写ミス・個体の出会い・環境変化という偶然性に支配されながら、環境に最も適応した個体が増殖していくという合理的・論理的力が絡み合っている。偶然と必然の組み合わせである。生物の種は偶然性の産物で奇跡だと思う。

他に、種のほとんどが死滅した時も交流断絶と同じ作用をして、残された個体が幹に影響を受けないで変化していく。この場合、種の分岐は起きない。

 

2) では幹との断絶なしに進化は起こりえるのだろうか。幹と断絶しなければ、新しい種は分岐しないと思う。なぜなら幹の遺伝子と常に混ざり合ってしまい、幹に引き戻されるからだ。ただより環境に適応して、幹が全体として少しずつ変わっていくことはあるだろう。だとしても分岐しないので、種が増えることはない。

 

3) あとは葉緑体ミトコンドリアを摂り入れたときのような、ウイルスや細菌感染による水平進化しかないと思う。

 

以上のことを考えれば、今地球上に存在する膨大な種の存在は、ちょっと信じられないくらい不思議だ。本当に幹との断絶だけで、これほどの種が生まれるのだろうか。

移動速度の遅い動物では、例えばアフリカにいる個体群と、中東に移動した個体群では、実質的には断絶が起こり、それぞれ独自進化したと考えられえるだろう。

同じ場所に同じ科が混在するのはどうやって説明できるのだろう。それぞれ別の場所で進化した種が、徐々に生息域を拡大して、混在するようになったのか。

だとしたら実際に大きな分岐が必要なのは、両生類と爬虫類の分岐など、綱をまたぐ分岐になる。両生類と爬虫類の場合は海と陸という断絶で説明できるが、爬虫類と鳥類の断絶は起こりうるのだろうか。それこそ全球凍結のような環境激変時にしか起こりえないのではないか。もしそうだとしたら、数少ないチャンスを利用して、生物は綱や目を増やしていったのだろう。

他に大陸プレートの移動による、大陸の分離は種の分岐を生み出しただろう。

 

絶滅の具体的姿を考えると、結局は、環境の変化に適応できなかった、ことに尽きる。

ボリュームゾーンが環境に適応的でなくなり、数を減らし、周辺の一部がより適応的になる。その一部が生き残るかどうかは、どれだけ多様性を生み出せるかだが、最終的には偶然による。

絶滅とは

1)準備不足  もともとあった多様性が小さかった。

2)即応力不足  環境変化以降の多様性の展開が遅かった。短い期間で大きな多様性を生み出すことは、体のつくりの複雑な多細胞生物、特に寿命の長い生物は非常に、または決定的に不利だ。 

 

生物としてのヒト

 

生物という視点で見れば、全ての生物は祖を同じくする兄弟姉妹だ。また死という宿命を背負った仲間でもある。そしてどういう生き方をしても、どういう死に方をしても、次世代の多様性に貢献したという点で、天寿を全うしている。次世代に材料と空間を譲り、より多様性のある次世代が生きるために死んだのだ。

生物から見れば、ある個体が子孫を残すことが大切なのではない。子孫を残さないで死んでいった個々の生物は無数にいる。大切なのは、その時に多様性が準備されているか、だ。子孫を残さずに死んだ個体も、生きてる間は多様性の一部である。