imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

パワーポリティクスと人権 政府のパワーポリティックス選択の必然性と人権侵害の可能性 ブログ

パワーポリティックスとは、国際関係において価値、つまり理想や関係より、利益、つまり長期的に利益の最大化を重視する考え方のことである。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B9

 

似たような概念に現実主義というのがある。国際社会を無政府状態と考え、力で均衡状態を作ろうとする考え方のことらしい。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E5%AE%9F%E4%B8%BB%E7%BE%A9

 

当たり前だが、パワーポリティックスと人権はしばしば対立する。大国が自国の長期的利益の最大化を追求すれば、小国はしばしばその犠牲になる。

 

パワーポリティックスの主体は政府である。政府を決める主権者は国民だ。多くの国民は外交の専門知識が無い。故に外交政策を政府に付託する。政府は明示的に外交政策を発表、遂行する。かつ秘密裏に遂行する。国民は外交手段に、そしてその結果に、不利益より利益が大きいと感じれば容認、黙認する。結果、価値より利益を追求するパワーポリティックスによって国外で人権侵害が起こり易くなる。

 

例えばサウジアラビアは、欧米の価値からすれば国内で日常的に人権侵害が行われている。が、アメリカは長期的に最大の利益を得るために、サウジアラビアに制裁を課さず、かつ武器援助をして良好な関係を保っている。よってサウジ国民は不備な裁判制度や過酷な懲罰によって人権を虐げられている。そしてアメリカ政府と大多数のその国民はその政策を黙認して、例えば輸出する原油はすべてドルのみで取引する、という約束によってドルの価値を維持し、豊かな生活を享受している。

政府はパワーポリティックスの行為主体であるから当然として、国民までもが黙認するのは政府の全体としての外交パッケージが自分の利益に叶う、と感じているからだ。遠い場所で多少?の人権侵害があっても、自分に利益があるほうを選択する。

 

核兵器保有も同じ構造である。核爆弾を持つこと自体が隣国から攻撃されない抑止力を生むが、核爆弾と、相手国が迎撃できないミサイルをセットで持つことにより、すべての国から攻撃されない抑止力が手に入る。

核兵器を持つことで、国際社会で特権的な立場を確保できる。どの国も核保有国に攻め入ろうとはしない。故に政府は核保有を目指す。これがパワーポリティックスの論理だろう。

さて核を保有しない国が保有国に国境を侵攻されたとき、通常戦力でたとえ国境まで押し返したとしても、深く相手国に侵攻することは出来ない。核兵器使用の可能性があるからだ。

つまり核を保有しない国は侵攻されることはあっても侵攻することは出来ず、ウクライナを見れば明らかなように、国内が戦場になるため、取り返しのつかない人権侵害が起こる。

では、しばしばそうであるが、核保有国に住む過半数の国民が核兵器使用に反対している場合はどうか。この場合でも政府による核廃棄は実行されない。されたことはない。ワンイッシューで選挙が行われない限り、国民は特にパッケージとしての政策を選ぶしかないからだ。気に入ったパッケージの中に、核廃棄の政策はない。

(使用しないことを前提にしての保有は意味が無い。抑止力が働かないからだ。しかし国民の多くはそこまで考えてない可能性があるので、使用には反対だが、保有は抑止が効くので賛成、という人がいるだろう。また仮想敵国が核保有してる以上、一方的にこちらだけが核廃棄は出来ない、と考える人も多いだろう。)

結果、核を保有しない国民だけでなく、核保有の国民も抑止力均衡崩壊による核兵器使用、核戦争の不安の中で生きることになる。ある意味、人権侵害が起こる。つまりパワーポリティックス実行主体側の国家の国民にも人権侵害が生じてしまう。

 

政府がパワーポリティックスを実行せざるを得ない2つの理由があると思う。

1 倫理の問題  国民の付託を受けた政府は、国民の利益を最大にする義務がある。

2 無意識の問題  外交政策は理性つまり意識によって選択される。隣家との付き合いのように無意識に支えられた、例えば親切なおもてなしのような行動はとれない。すべての利他行為は、計算された利己に基づくしかない。



追補 

 

パワーポリティックスについて  

実際は実態が先にあって、名前は後から付けられたと思う。政府が長期的に最大利益を求めて振る舞うことを、外から観察した時に、パワーポリティックスと名付けたに過ぎない。そして政府が長期的に最大利益を求めて振る舞うことは当然であろう。他に何を求めて振る舞うのだろうか。短期的利益なのか。それではおバカさんだろう。長期的な視点に立ったほうが利益は大きいに決まっているのだから。それとも隣国との良い関係を第一義において振る舞うのか。隣国がどう対応するか分かりもしないで相手を信用するのもおバカさんであろう。つまりすべての政府はその能力に応じてパワーポリティックスを実行してしまうのだ。内実は大いに違うが、日本政府もイスラエル政府も同じパワーポリティックスを実行している。

その最大の受益者が国民なのか、それとも選別された人々なのか、は別にして。

 

◎ ここでは人権侵害を欧米の価値から見た人権侵害とした。私は、現時点で、すべての国に欧米の人権概念を適応するのは強引だと思う。

今の日本の人権概念を聖徳太子の時代に持って行って提案しても、人格者として名高い聖徳太子に剣もホロロに却下されるだろう。

 

◎ 長期的利益の最大化、の長期的とは、認知バイアスのかかった人間の能力を前提とし、かつ未来は偶然にも支配されているので、予想が外れる可能性が十分にあることを意味する。

 

◎ ブログ1 意識と無意識から外交を考えた 

 

https://imakokoparadise.blog.jp/archives/13250751.html

 

◎ ブログ2 社会的動物としての人間から見た戦争について考えた  

 

https://imakokoparadise.blog.jp/archives/15762521.html