imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 行間を読む、とは 2024年1月22日

10代のころから、本を読むときは行間を読め、とよく言われた。眼光紙背に徹する、という言葉もある。

しかし私はよく意味が分からなかったのである。意味が分からない、と言うか、どうしていいか分からなかった。

行間を読む、とか紙背に徹する、とかのイメージがどうしても文字に引きずられてしまった。

要は、作者の言いたいことを読み取れ、ということなのだろう。書いてないことがあるから、行間を見ろ、と。で、若い頃の私は、具体的に行間を見たのである。もちろんそこには白い紙の余白があった。

それが私の、行間を読め、のイメージであった。

 

最近久しぶりにそのことを思い出したので、考えてみた。

 

行間を読む、とは2つのことを表現していると思う。

 

1 作者が言いたいのだけれど、事情があって書いていないこと。具体的には

1) 敢えて結論を書かない。なぜなら”下品”だから。

これは文学作品の表現法だろう。余韻を残すために、映画でもよく用いる手法だ。論文でこの表現法をとる人はいないだろう。

 

2) 立場上言えない。

これは必ず付きまとう問題である。所属している組織の批判は出来ないだろう。友達に対しても同じである。故にほのめかしが精いっぱいになる。世間のしがらみの全くない人はいない。故に程度の差はあれ必ずタブーはある。特に自分の稼ぎに関わる対象には強いタブーが生じる。

 

2 作者には当たり前なので、書くまでもない。または常識なので意識さえできない。つまり前提は書かれない。別の言葉で言えば、作者の世界観のことである。意図せずとも作品に表現してしまう価値観のことだ。 

 

以上のことから言えるのは、以下のことだと思う。

 

1 文章を読むときは、作者がどんな立場かを知っておく必要がある。定年退官した文部科学省官僚が、教育について書いていれば、文部科学省を批判する内容は書けないから、そのことを補いながら読む必要がある。別の例を挙げると、タイの近現代史の日本人学者は、例えばタイの与党の国王に対する政策を批判出来ない。タイ入国時にビザが支給されない可能性があるからだ。タイの専門家がタイに行けないのは、致命的であろう。同じくタイ在住の日本人ユーチューバーも政治批判できない。ビザが更新されない可能性があるからだ。同じことは中国やロシアでも起こっているかもしれない。

 

2 また難しいことだが、意識さえしていない作者の前提を探す努力をする必要がある。定年退官した文部科学省官僚は、今後も日米同盟が続くことや、自民党が与党であり続けることを前提とした上で、議論を組み立てているだろう。その前提を意識化しておく必要がある。別の例を挙げると、聖徳太子が書いたことを、現代の文脈・常識を前提にして読むのは頓珍漢であろう。ガンディーの「非暴力、不服従」を現代の文脈で読むのも同じである。

 

当たり前のことを書いたが、非常に大切なことだと思う。この態度は本を読むときだけでなく、映画を見るときも、総理大臣の話を聞くときも、専門家の話を聞くときも、上司の話を聞くときも、親の話を聞く時にも求められる態度である。

 

更なるメタ認知を獲得するためには、

 

自分に対しても同じことを試してみるのが良いと思う。つまり、自分のその時々の発言のタブーを意識したり、発言の前提になっているものの意識化、更には自分には前提だが、相手には前提になっていないことの意識化である。