imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

映画 レビュー 「大理石の男」アンジェイワイダ 1977年公開 ブログ

1970年代のポーランドの前提を現代の日本人が共有することは難しい。社会主義国家で、ソ連の衛星国、つまり属国で、平等ではあったけれど、自由が無い。表現の自由が無く、つまり報道の自由が無く、そして実質的に政府批判の自由もなかった。それを犯せば、思想犯として何年も刑務所に入れられた。

主要な食べ物は配給制で、米ドルはブラックマーケットで公定価格より何倍もの高値で取引された。市井には秘密警察が徘徊し、友達にも迂闊に本心を話せなかった。

 

この物語は、大理石のような、強く、美しい意志を持つ男と、彼を取り囲む普通の人達の物語である。普通の人たちとは、支配者層からの懲罰を恐れ、転向し、大理石の男を売ってうその証言をして建築現場の幹部になった仲間や、やはり指導者層を恐れて投獄中の夫である大理石の男のうその証言をし、後悔にさいなまれてアルコール依存になった元妻、そして大理石の男のドキュメンタリー映画を製作する女学生に、制作中止の圧力をかける、指導者層に支配される国営放送で働く映画指導者のことだ。

 

ここに出てくる労働者は、みな同じ価値を共有して、仲間意識を持っているように見える。権力からの弾圧はあったが、地縁や血縁の中でみな助け合うことが出来た。仲間とつながっている感があったと思う。理不尽な時代ではあったが、仲間たちとの最低の信頼は感じられただろう。

 

この映画には現代の最大の問題になったものの兆しさえ現れていない。つまり豊かになり、価値が多様化し、家族がバラけていき、共同体が解体していき、個人が孤立し、ストレスをためた個人が目先の快に走る。それが社会の基盤を蚕食し、ますます社会が不安定化する。それが全くない。

 

アンジェイ・ワイダ社会主義体制での人々・労働者の無個性さと権力への従順さや、近代建築の無機質さに社会主義を喩えて、人々と大理石の男の違いを表現しようとした。

振り返って今日を見れば、権力vs人民や不正義vs正義というような明確な二項対立はない。その両者が立っている足元が崩れ始めている。

 

当時は情報統制が厳しく東側で何が起こっているのかよく分からなかった。東側に幻想を持っている人たちが西側に多く存在した。

アンジェイワイダ監督はそんな西側に社会主義国家の実態を告発するとともに、ポーランド国民に政府に反対する勇気を与えようとしたと思う。

しかし今となっては監督が意識さえしなかったもの、共同体意識が映りこんでいて、物理的な人々の臭いが立ち上がり、懐かしさを覚えるのである。