imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 覚悟が決まるとは。 命の毀損と覚悟の関係 2024年1月24日

死を覚悟の上での行動がある。死ぬ可能性があることを承知の上で決断した行動のことである。例えば厳冬期のチョモランマの登頂を目指すことはそうだろう。厳冬期に登頂を目指す人は必ず身辺整理をしているはずだ。現代の厳冬期にチョモランマを登頂することは社会的に何の価値もない。しかし本人にとっては夢であり価値がある。だから死んでも本望だと思える。つまり覚悟が決まる。では紛争地に赴くジャーナリストはどうだろう。1月9日時点でパレスチナ人ジャーナリストがガザ戦争で100人死んだそうである(当たり前だが、プレスへの攻撃は医師、看護師への攻撃と同じく国際人道法違反である)。では西アフリカを横断する旅行者はどうだろう。旅行者仲間から数年前、友人がブルキナファソで行方不明になったが、現地の状況を知らないか、と連絡があった。では東北地方の自転車一周旅行はどうだろう。

 

夢とは その人にとっての価値である。価値とは執着し続けることである。執着とは何かを犠牲にすることだ。それは覚悟が必要なことである。犠牲には自分の命が含まれる可能性がある。死ぬ可能性0.01%(日本で日本人が1年間に交通事故で死ぬ可能性)から1%(通年のチョモランマ登山の死亡率)、さらに20%(通年のK2登山の死亡率)まで、夢への執着の強弱によって許容する度合いは違うだろう。たとえ命自体は含まれなくとも、健康が含まれる可能性は高い。執着は健康を蝕み、命を削るのである。快を減らし、不快を増大させる。

 

逆に言えば、長生きだけを目的とした健康至上の生活、つまり快だけを追求した生活は、健康的かも知れないが、執着が無く、つまり価値を持たず、つまり夢の無い人生を送ることになると思う。生きることの本末が転倒している。

 

価値にこだわる、とは、人生の快を犠牲にすることだ。人生の快を犠牲にするから、自ずと覚悟が決まるのだと思う。

 

で、結局何が言いたいかというと、死ぬ覚悟が少しでも決まると、生きる覚悟が決まるのである。やりたいことがある限り、どうしたって生きてやるぞ、と思えるのである。道半ばで死んでも、それはそれで本望なのだ、と思えるのである。

 

同じことは寿命が縮まることについても言える。寿命が縮まってもよい、と覚悟が決まると、生きる覚悟が決まるだろう。認知バイアスから逃げずに、現実に向き合った喫煙者は、生きる覚悟が決まっていると思う。認知バイアスから逃げるとは、医学の研究結果や統計を自分に都合の良い何かの理由をつけて眼を背けることである。

 

追記

 

  • そもそも生きることは、命を縮めることだと思う。それは以下の意味である。

 

動物は摂食活動をしなければ生きていけない。摂食活動は捕食者に隙を見せることになり、命を失いやすい。また摂食探索活動は身体に過酷な負荷をかける。飢えて死ぬより、探索活動で寿命を縮めるほうがましであろう。動物の歴史は飢餓の歴史であった。私たち動物は、心身を傷つけながら食べ物にありついてきたのである。

 

食べ物を得るということは、時には命を失い、日常的に命を削る行為である。別の言い方をすれば、労働(仕事で働くこと)とは本質的に命を削る行為だと思う。私は別に資本の味方ではないが、労働という摂食活動は、基本的にそういうものだと思う。快適な労働環境、とは、本質的に存在矛盾のような気がする。

 

  • 逆必ずしも真ならず、ではあるが、覚悟を決めるためには、命の毀損が前提である気がする。

 

この命題はさらに次の疑問を生む。

 

覚悟を決めることは、人生に必ず必要か、である。

 

もちろん必ずしも必要ではない。人それぞれである。ただ夢や価値を持つのであれば、つまりワクワクと生きるのであれば、何かを毀損せざるを得ず、毀損を選択した時点で、覚悟が決まる、と思う。

 

交換の概念を使えば、命や健康の一部を自然に差し出すのと交換に、自然から覚悟という力を貰うのである。その駆動力は、ワクワク感ということになる。