imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 「愛だけを残せ」(中島みゆき)と仏教の輪廻 2023年12月22日

「愛だけを残せ」は2009年に発売された。私が知ったのは、勢古浩爾氏の著書を通じてで、確か去年あたりだったと思う。

この曲をユーチューブで聴いた時、どうしてこんな良い曲を今まで知らなかったのか、不思議に思った。

 

https://youtu.be/gUDikbjabaw?si=sqD_IYnKhhy5MHRu

 

ユーチューブの動画を見ると男女の関係が描かれている。もちろんこの解釈は可能だが、中島氏が意識しているかどうかは不明だが、私がこの曲を聴いた時、まず思ったことは、仏教の輪廻のことだった。

 

日本では釈迦の教えが変形して伝えられていると思う。輪廻転生の主体はアートマン、つまり人の”心”ということになっているが、それでは絶対的なものを否定した釈迦の教えに反してしまう。

 

エスユダヤ教の改革者として現れたのと同じように、釈迦はバラモン教の改革者として現れた。バラモン教の何を改革しようとしたのか。アートマンは永続する、という絶対性を前提としたカースト制度の否定である。

カースト制度は、アートマンの永続を前提に成り立っている。たとえ今回の生では貧しい農民であっても、善行を積めば、来世は王に生まれ変われる。

しかし現実は、貧しい農民の子は貧しく、更にその孫も貧しい。そのことにシッダルタは悩んだ。

 

で、辿り着いたのが、絶対的なものなど何もない。全ては移り変わっていく。である。更に言えば、全ては関係に過ぎない。「空」の概念である。

 

ということを考えれば、アートマンが永続する、という考え方はあり得ない。

 

敢えて言えば、縁起・因果は永続する、だろう。例えば私が何かをすれば、それが誰かに影響を与えるだろう。その影響を受けた人は、更に別の人に影響を与えるだろう。その連鎖は私が死んでも続く。

 

とすれば、永続するのは、縁起、因果と考えてもいいだろう。

 

さて、

 

私が「愛だけを残せ」の歌詞

 

愛だけを残せ  名さえも残さず  命の証に  愛だけを残せ

 

を聴いた時、以下のように解釈した。

 

愛とは縁起で、名とは実体、一人の人間のことだと。

 

すると次のようになる。

 

良い縁起を実行して世の中に残せ、自分が生きたことなど消え去っても、自分が生きた証に、良い縁起だけを残せ(それが世の中を変えていくだろう)

 

素晴らしい歌詞である。