imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 通路を空けて欲しいとき、店員の「いらっしゃいませ」は適切か 2023年12月13日

スーパーで買い物をしているとき、カートを押した店員に「いらっしゃいませ」とか「ありがとうございます」などと後ろから声を掛けられることがよくある。つまり邪魔なので道を空けてくれ、という意思表示なのだ。

 

私はどちらかというと、形式よりは内実に重きを置く人間だと思う。多少表現が間違っていると思っても、内容が伝わればそれで良いのではないか、と思うほうだ。

 

しかし。

 

しかし、道を空けて欲しいときに、「いらっしゃいませ」はないだろうと思うのである。そもそも全く意味が違う。こんな時にもっと適切な言葉があるだろう。例えば「失礼します」は、よく使われる表現だし、この状況で使っても全く違和感はない。

 

なぜこんなことになっているのだろう。

 

1 考えるのが面倒臭い。接客用語をなるだけ減らして、いちいち考えなくてお客に対応したい。なるだけ汎用性の高い用語を幾つか覚えておいて、全てそれで済ませたい。

 

つまり仕事にやる気が無いのである。なるだけ楽をして仕事を終え、早く家に帰りたい。

 

どんな表現を使っても、意味が伝わればそれでいいだろう。意味はそっちで、つまりお客が考えてくれ、私は接客ストレスを減らしたい。そういう態度だと思う。

 

2 表現と意味が食い違ってなく、全く問題が無い、と思っている。

 

子供のころから上記の接客をされていると、「いらっしゃいませ」や「ありがとうございます」に「失礼します」の意味が加わるだろう。既にそうなっている可能性があるし、これからそうなる可能性が高い。

話し言葉は生きている、つまり刻々と変化している、の一例になる。

 

3 可能性としては低いが、以下のこともあるかもしれない。

「すみません」は自分がへりくだる表現なので、使いたくない。商品を運ぶのに、私が謝る必要はないだろう。

 

自己肯定感が低すぎるが、こういう感情があるかもしれない。

 

で、上記の使い方をしている人を見ると、たいてい中高年の人なので、多分1の理由によるのではないかと考えている。

そう感じているから、後ろから、「いらっしゃいませ」という言葉が聞こえると腹が立ってしまう。もう少し努力しろよ、と。もう少し一生懸命に生きろよ、と。



追記

 

以前、身体障害者の介助をしていたことがある。車いすを押して商店街やスーパーの買い物によく行った。車いすは幅があるので、人が立っていると通路が狭くて通れないことがしばしばある。で、声掛けをして端に寄ってもらう。

 

「すみません、後ろを通ります」

 

一回の外出で何度もこの言葉を使う。

 

最初の頃はよくこの言葉を使っていたが、違和感を感じるようになった。

常に「すみません、何々して下さい」と言っているのだ。介助をしている第三者の私が言ってるから言うこと自体に抵抗は無いが、もう少し障害が軽くて、一人で町に出掛ける場合、人に頼まざるを得ない場面では本人が頼むことになる。ものを頼むからには、「すみません」と言うだろう。つまり常に「すみません」なのだ。

本人からすれば、身体に障害があるのは自分のせいではない。にもかかわらず、常に「すみません」なのだ。

 

で、「後ろを通ります」しか言わないように私はした。わざわざ手間をかけて寄ってもらったときには、「有難うございます」と付け加えた。

 

それで十分ではないか、と思う。

 

よく言われるように、すみません、は、軽い声掛けの時にも、軽く謝るときにも使うので、便利、つまり厳密に考えなくて済む、つまり汎用性が高い。だから多用される。

 

軽い声掛けのつもりで使っていても、繰り返し使っていると、何となく謝っている気持ちになってくる。常に頭を下げている気持ちになってくるのである。それが介助の時に経験したことであった。

 

障害者がそのような気持ちになることはないと思う。