imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ しあわせについて 2023年10月

 しあわせとは、満たされていること、欠けてることの無い状態ということだと思う。具体的に言えば、願いが叶うとか、大切な人に自分の存在が受容されるとかである。

 

1  私なりにしあわせを抽象化すると、自分に付随する大切なものが受容された時に生じる感情、である。

受容とは、受容する側から見れば、リターンを期待しないで与えることだろう。

故にしあわせとは、大切なものがリターン無しで自分に与えられた時に生じる感情、になる。

 

このリターン無しで与えられたという性質が、しあわせを特徴づけていると思う。

多くの快感情は交換によって得られている。空調の利いた快適な空間も、美味しい食事も、魅力的な車も、贅沢な旅行も、全てお金で購入して、つまり労働の対価である貨幣と交換して入手している。その性質上、予測可能である。つまりこの種の快感情を入手したい時、容易に入手できる。

 

一方、しあわせは無償の贈与で支えられている。無償の贈与は無償であるがゆえに予測不可能である。つまり外界任せなのである。

 

このことがしあわせを得ることを難しくさせている。別言すれば、しあわせを人生の目的に出来ない。





2  しあわせは進化のメインステージに乗ってないと思う。もう少し砕けて言うと、よりしあわせを感じた人が淘汰に有利には働かない。つまり生き残りに有利には働かない。結果、ヒトはより幸せになるように進化圧がかからない。

 

ある環境に適応的であるとは、個体の繁殖能力の維持・増大が必要であるが、そのためには個体が頑健であることが大切である。

で、ヒトを含めた動物は、個体が頑健であることを指向するためにより有利な行為に快感情が添付された。同じく不快感情の忌避が添付された。つまり個体が頑健を維持する行為には快感情が生じるようになった。

つまり自然界では、快感情に従っていれば、個体が頑健に最適化されるのだ。

 

具体的には、お腹がすけば食べ物を獲得して食べることであり、眠くなれば危険な場所を避けて眠ることであり、寒ければ場所を変えることであり、暑ければ体を冷やすことである。

 

快感情を得るための手段はかなり明瞭である。今までの経験から予測できる。つまりある状態のとき、ある行為をすれば快感情が得られる。

だとすれば、ある状態のとき、ある行為を強く指向すればより快感情が生まれ、個体がより頑健になる。故に生き残りに有利に働き、その遺伝子が残りやすくなる。

つまり快感情は進化に乗りやすい。それに引き換え、しあわせは予測不可能な外界に依存するが故に進化に乗れないのだ。ある状態のとき、ある行為をしても、しあわせを感じるとは限らないからだ。

 

つまり、しあわせの遺伝子を増大させる力は働かない。それでも人は幸せになりたいだろう。だとすれば、遺伝子には頼れない。努力して得るしかないのだと思う。

 

いやいや、快感情を得るためにも努力しているぞ、と思う人がいるかも知れないが、快感情に従って生きる、とは、利己的に生きる、ことで、何も考えないで生きれば、すべての生き物は自然とそう生きてしまう。

 

3  しあわせは多くの場合、人との関係の中で感じるものだろう。つまり他者からの承認が関わっている。

他者から承認を得る場合でも、交換によって得られた承認にはしあわせは生じない。具体的には、こちらが見返りを期待して相手を承認し、予定通り相手がこちらを承認してくれる場合である。

しあわせを感じるためには、こちらが何も与えていないのに、相手が無償で承認してくれることが必要である。

もちろんこれは予測不可能で、その不安定さ故に、遺伝子にも乗らない。