imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

自由について 束縛と快追及と

まず自由の定義を、束縛のない状態、とする。

 

ではどんな時に自由を感じるだろうか。

 

仕事が毎日忙しく、時間に束縛されている。時間に束縛されないのが、自由。

個人的なこだわりに束縛されている。こだわりに束縛されないのが、自由。

正しいこと、つまり社会的正義の実現に束縛されている。正しいことに束縛されないのが、自由。

今後の人生をより良くすること、つまり最適化することに束縛されている。人生の最適化に束縛されないのが、自由。

快の追及に束縛されている。快追及に束縛されないことが、自由。

意識、つまり自分に都合の良い認識体系に束縛されている。意識に束縛されないのが自由。

 

これらの例から束縛を抽象化すれば、束縛とは、快につながると予想される行為のことになると思う。

 

つまり自由とは、快追及から逃れること、になる。違う言い方をすれば、快追及は、遺伝子にプログラムされた行為だ。何も考えなければ、人は快追及にのめり込む。利己な欲望に急き立てられている状態だ。この状態は不自由であろう。

 

ところで、自由とは、束縛があって初めて自覚できる概念だ。自由という具体物は無く、故にそれ自体を目指すことはできない。行為の結果として生じる概念だ。そういう意味では、しあわせと共通する。

自由とは束縛のない状態と定義したが、完全に束縛のない状態はあり得ない。束縛のない状態を達成した、と思った瞬間に新しい束縛が現れる。原理的に、束縛のない状態が束縛になってしまうからだ。

 

違う言い方をすると、

自由とは快追及から逃れること、だが、具体的には、快追及をしない選択をする、ということになる。不快を追求する、という行為もありうるが、追及した時点で、束縛が生まれてしまうので、快追及と同じことになる。ということは、快・不快にかかわらず追及する、何かをしようとすること自体が、束縛を生む。ただ、不快を追求する、ということは現実にはあり得ないので、ここでは考えないが、追及した時点で、原理的にはどちらも同じである。

 

そして快追及をしない行為を選択した瞬間に、それをしないという行為が束縛を生み出してしまう。故に快追及をしないことをする直前が、最大に自由を実感できることになる。それは、未だ、の状態だ。

ところで、人は寝てるとき以外は選択した結果として必ず何かをしているので、未だ、の時は実際はその前の行為をしている。例えば、お菓子を食べる、という快追及をしない選択をしたとき、それまでの行為、テレビを見ている行為が続いている。

故にその前の行為を続けることによって、未だ、の状態を維持し続ければ、つまりお菓子を食べないという選択をした状態で、テレビを見続ければ、最大の自由が持続して生じる。

しかし実際は、その自由という快を維持し続けようと思った瞬間に、それが快追及になって、束縛が生じるので、自由は失われる。

故に、自由を生じさせるためには、すぐに失われることを前提に、快追及をしないことをするしかない。そしてその状態は維持できないので、さらに自由を生じさせるためには、快追及をしない新しいことをし続ける必要がある。

 

まとめると、

自由とは、何かをしないことによって、認識される概念である。何かとは、遺伝子にプログラムされた快を追求する行為である。快を追求することは、プログラムされているので、不自由だからだ。自由は、しないことによって認識されるので、それ自体を目指すことはできない。

快を追求しないという選択をすることによって、自由は生じるが、しないという選択をした瞬間に、自由という快が生じるために、その選択が快の追及になり、たちまち自由は失われる。

繰り返せば、自由は快追及をしない選択をすることによって生じるのだけれど、自由そのものが快なので、自由が生じてそれを維持しようとした瞬間に束縛が現れて、たちまち自由は失われる。崩れることを運命づけられた賽の河原で石を積むようなものだ。

 

 にもかかわらず何故、自由を感じることは大切なのか。人は自分に都合の良い認識体系を創り出して、それに束縛されている、ということを考えれば、自由を感じることは、規範・世界の外側を意識することだからだ。別の言い方をすれば、全体性を回復する契機につながるから大切なのだと思う。



余談  

 

人が感じる快感情には、自分が得をすること、つまり生物由来の利己行為という快感情のほかに、人ならではの快感情があると思う。それは価値を実現しようとするときに感じる。具体的には以下の2つ。

1 社会的価値、つまり正しさを実現しようとするときに感じる。別の言葉で言えば、利他。生じる感情は、嬉しさ。

2 個人的価値、つまりこだわり・嗜好を実現しようとするときに感じる。別の言葉で言えば、未知。生じる感情は、楽しさ。

 

どちらも実現を目指した時、快感情が生まれると思う。