imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 汗ばむことは不快なのか 快と不快は設定次第 2023年9月

今年の夏も暑かった。

 

私の部屋には冷房が無い。だから汗をかく。

 

今はもう9月の半ばの晩夏である。かなり涼しくなってきた。それでも起きた時、何となく汗ばんでいる。それが気になって最近起きたら水を浴びている。盛夏にはそんなことはしなかったのに、である。

 

一体これはどうしたことだろう。

 

盛夏には起床時は十分に汗ばんでいた。しかし水を浴びようとは思わなかった。水を浴びてもすぐに汗をかいてしまうからだ。それでは意味が無い。

 

しかし今は、一度水を浴びると、扇風機さえ廻しておけば汗ばむことが無い。快適さを維持できる。それを知っているから、汗ばんでいることが気持ち悪く、気になってしまうのだ。

 

つまり盛夏には、快適さのハードルを下げていたので、汗ばんでいることが気にならなかったのである。

 

ということは、初夏はまだ快適さのハードルが高かっただろうから、汗ばんでいることが気になっていたはずだ。だからお湯を浴びていたような気がする。

 

ところが気温が上がって盛夏になるにつれ、お湯を浴びてもすぐに汗をかいてしまい、浴びたことが無駄になる。

 

だから快適のハードルを下げて、水を浴びたい気持ちを懐柔する。別の表現をすれば、不快を我慢する。もしくは快適であることをあきらめる。

 

ところで、晩夏の今から盛夏を振り返ると、不快を我慢してた、という記憶が全くないのである。実際特に我慢してなかったと思う。

 

ということは、初夏から盛夏に移り変わってハードルを下げた時は一時的に不快を感じただろう。しかしそれをあきらめた時点でそれが常態になり、気にならなくなった。

 

以上のことから以下のことが言えると思う。

 

快のハードルを下げる理由に納得できれば、人は不快を不快と感じなくなる。

 

逆に言えば、今が快適な状態だと思っていたとしても、実はたくさんの納得できる理由をつけて、多くのハードルを下げている可能性がある。

 

つまりいかに上手に不快を納得できる理由を作れるかが、快適に生きる肝になる。




であるならば、人間関係など、多くの不快な出来事を、納得できる理由を上手につけて、さっさと快適な状態を作るのが賢明である。