imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

ビビドに生きるということ 2023年7月

先日中国ロウ・イエ監督の「Spring Fever」を観た。映画の前半で、音楽のかかった広場で市民が踊る場面があった。そのゆったりとした音楽を聴いた途端、強制的に過去に連れ戻された。1988年に中国を旅行した過去にである。

あの当時のビビドな感覚がよみがえった。心を持っていかれそうであった。

 

私が今いるのがどちらなのか、困惑した。61歳で東京にいるのか、26歳で中国南部にいるのか。今が幻なのか、それともあのビビドな日々が幻なのか。この牢獄のような、日々の義務に縛られた毎日は、一体本当に現実なのか。中国旅行をしたあのビビドな日々、日本人旅行者と喋り、笑いあったあの日々は何処に行ったのか。一体今はいつなのか。

 

あの心躍らせる、心の底から楽しかった日々が私が死ぬと消えてしまう。私が死ぬと、私が体験したすべて、楽しかったこと、悲しかったこと、嬉しかったことのすべてが消えてしまう。私の人生の全てが永遠に失われる。

 

それはつまり、私が今体験していることも消えてしまう。消えてしまうものを、一生懸命に作っている。まさに、波打ち際に作った砂の造作だ。

 

明日の為に今を我慢することがひどくバカバカしい。

成り澄ます、という選択があるが、何のために成り澄ますのだろう。社会と上手くやっていくためか。大切な人を悲しませないためか。

「時間割引率が低い」って、何のためか。全く生き物らしくない。不自然な生き方だ。

 

私は何に反応しているのだろう。

1 すべての体験とそれに固着した感情が消えること。つまり虚しさ。

2 あんなにビビドな体験ができるのに、今、自らを束縛して生きていること。そして彼我の時間の混乱。つまり今を大切にしていないこと。

 

そもそも今の暮らしが成り澄ましなのだ。あの時の体験があるから成り澄まして生きていける。

にもかかわらず、何の為に?

 

もともと生き物は「毎日をつつがなく暮らす」と言うようには出来ていない。だからある人はギャンブルに、ある人はドラッグに嵌まる。ジェットコースター人生がある。

 

大切な人との信頼もsquareだと思う。今をビビドに生きるのに、信頼や約束は足かせになる。

 

私の中に、引き裂かれた時間が流れている。

 

追記

 

以前「百万本のバラ」について書いたことがある。

 

https://imakokoparadise.blog.jp/archives/13250854.html

 

この歌は成り澄ましという視点からも見れる。

貧しい絵描きが、女の為に広場一面を買ったバラで埋め尽くした。そして女は町を去った。

しかし物語はそれで終わらなかった。

貧しい絵描きは、その思い出を胸にその後の人生を生き続けた。その思い出があったからこそ、普通の人間に成り澄まして生きれたのだ。その思い出が無ければ、男はその後の人生を平安を装って生きれなかった。

 

しかし男はそれで本当に満足したのだろうか。短命であっても、もっとジェットコースター人生で良かったのではないか。