先日中国ロウ・イエ監督の「Spring Fever」を観た。映画の前半で、音楽のかかった広場で市民が踊る場面があった。そのゆったりとした音楽を聴いた途端、強制的に過去に連れ戻された。1988年に中国を旅行した過去にである。
あの当時のビビドな感覚がよみがえった。心を持っていかれそうであった。
私が今いるのがどちらなのか、困惑した。61歳で東京にいるのか、26歳で中国南部にいるのか。今が幻なのか、それともあのビビドな日々が幻なのか。この牢獄のような、日々の義務に縛られた毎日は、一体本当に現実なのか。中国旅行をしたあのビビドな日々、日本人旅行者と喋り、笑いあったあの日々は何処に行ったのか。一体今はいつなのか。
あの心躍らせる、心の底から楽しかった日々が私が死ぬと消えてしまう。私が死ぬと、私が体験したすべて、楽しかったこと、悲しかったこと、嬉しかったことのすべてが消えてしまう。私の人生の全てが永遠に失われる。
それはつまり、私が今体験していることも消えてしまう。消えてしまうものを、一生懸命に作っている。まさに、波打ち際に作った砂の造作だ。
明日の為に今を我慢することがひどくバカバカしい。
成り澄ます、という選択があるが、何のために成り澄ますのだろう。社会と上手くやっていくためか。大切な人を悲しませないためか。
「時間割引率が低い」って、何のためか。全く生き物らしくない。不自然な生き方だ。
私は何に反応しているのだろう。
1 すべての体験とそれに固着した感情が消えること。つまり虚しさ。
2 あんなにビビドな体験ができるのに、今、自らを束縛して生きていること。そして彼我の時間の混乱。つまり今を大切にしていないこと。
そもそも今の暮らしが成り澄ましなのだ。あの時の体験があるから成り澄まして生きていける。
にもかかわらず、何の為に?
もともと生き物は「毎日をつつがなく暮らす」と言うようには出来ていない。だからある人はギャンブルに、ある人はドラッグに嵌まる。ジェットコースター人生がある。
大切な人との信頼もsquareだと思う。今をビビドに生きるのに、信頼や約束は足かせになる。
私の中に、引き裂かれた時間が流れている。
追記
以前「百万本のバラ」について書いたことがある。
https://imakokoparadise.blog.jp/archives/13250854.html
この歌は成り澄ましという視点からも見れる。
貧しい絵描きが、女の為に広場一面を買ったバラで埋め尽くした。そして女は町を去った。
しかし物語はそれで終わらなかった。
貧しい絵描きは、その思い出を胸にその後の人生を生き続けた。その思い出があったからこそ、普通の人間に成り澄まして生きれたのだ。その思い出が無ければ、男はその後の人生を平安を装って生きれなかった。
しかし男はそれで本当に満足したのだろうか。短命であっても、もっとジェットコースター人生で良かったのではないか。