もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし
行尊
大意は、
修験道でひとり厳しい修業をしているとき、ふと見上げると桜が咲いている。私がそう思っているように、お前も私のことをいとしいと思ってくれ、山桜よ。お前の他には私の気持ちを知る人もいないのだ。
歌の詳しい解説はこちら
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もろともに とはお互いに、という意味である。私は永らく、すべて、という意味だと思っていた。つまり、すべてがいとしいと私と同じように思ってくれ、山桜よ、その気持ちはお前しか知らないが、という意味にとっていた。
まぁ、それはそれで意味深いが。
さて今回、作者の意図を正しく知ったわけだが、ひとつ疑問が湧いてくる。それは、花よりほかに 知る人もなし、つまり、桜の花しか私の気持ちを知らない、とのことだが、その私の気持ちとは何か。
山桜のことをあはれ、と私が思っていることなのだろうか。だとしたら、それはあまりにも平板、幼稚だと思う。正直、なんの感慨も湧かない。桜の花をあはれと思うのは確かに風流だが、ただの貴族趣味で今の時代に共感しづらい。
私はあえて以下のように読む。
俗世を捨て、その俗世の為に一人孤独に修行をしている引き裂かれた気持ちこそが、私が桜の花と共有したいものだと思う。
作者の行尊は天台座主まで上り詰めた人である。貴族の長男は父の位を相続するが、次男三男は外に出て暮らしを立てていかなければならない。その行き先のひとつが天台宗だった。行尊の祖父は親王(天皇の息子)である。父は夭折したが、従2位まで上った。
庶民から見れば、この恵まれた人が、世俗の苦しみを分かっていたのか、その引き裂かれた気持ちなど、お坊ちゃんのお遊びに過ぎなかろう、と思うかも知れないが、本人からすれば、孤独な修業は切実だったと思う。
これを元歌にして私は以下に読みたい。
台風が九州を北上している。その影響が東京にも及んで、いつもより雲が生き生きしている。この生き生きとした雲に比べると、この社会はまるで死んだように変化が無い。いったい誰がこの社会を本気で気にしているのであろうか。
もろともに あはれと思へ ちぎれ雲 この世のことを 知る人もなし