「ビビドに生きるということ 」
https://imakokoparadise.blog.jp/archives/21966263.html
の続きです。
ではどうすればビビドな日々を送れるのか。
もしお金を気にすることが無ければ、あての無い旅に出ればビビドな日々が送れるのか。
旅もそれぞれの場面では計画が必要である。ビザの問題、宿泊先の決定、移動の方法、そしてもちろんお金は無尽蔵ではないので、出費の計算。気にしようと思えば、いくらでも気になることが湧いてくる。これでビビドな日々を送れるのか。
さらに重要なことは、ビビドな気持ちは非日常に属する。ビビドな気持ちを日常的に持ち続けることは出来ない。非日常の連続は日常になるからだ。旅も同じである。
ではブッシュマンまたはサンのように狩猟採集民は毎日がビビドか。血縁関係を中心にした少数の集団生活なのでストレスは日本よりはるかに少ないだろう。しかし当たり前だが、彼らは日常生活を営んでいる。彼らにとってその生活は非日常ではない。つまりビビドではない。
どんな生活形態でもビビドは保証されず、かつ永続しない。たとえ瞬間であっても、求めて必ず体験できるわけでもない。
ではどうすれば良いのか。
経験から言えば、向こうからやって来るのを待つしかない。しかしそのためにはこちらの受け入れ準備が必要である。
漠然とした表現をすると、力の抜けた自由な心。すべきことなど何もない。異なる価値の受容的態度。
別の表現をすると、日常的に耳を澄ましておく、やって来た時に身を任せる。
抽象化すれば、自己と外界の境界をあいまいにしておく。
ビビドな瞬間は、求めて得られるものではない。そんな瞬間を経験したなら、後生大切にして心のよりどころにして生きていくべきである。心を解放した無垢な自分の体現として。