imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

記録することについて 楽しさを犠牲にした快適さ 2023年3月

私は記録魔である。3年ほど前からコーヒー豆を焙煎しているのだが、焙煎後どれだけ豆が軽くなったかの焙煎率と、焙煎中の一分ごとの温度変化を記録している。紅茶や緑茶をいれるときの湯温と抽出時間も記録している。

 

今朝ぼんやりとしていると、ふとビタミンの特性の一覧表を作って、調理法に応用したいなぁ、という考えが浮かんできた。帳面に書くか、このドキュメントに打ち込むか、どうしようかなぁ、と考えていると、何故かそれらのことがひどくバカバカしく思えてきた。

何と言うか、自分の自由裁量を自分で狭めている気がしたからである。チマチマ生きている気がしたからである。

 

で、記録することについて考えてみた。

 

そもそも何故記録するのか。次の時に利用しようと思っているからである。次の時に利用してどうしたいのか。より良くしたいのである。前回の教訓を生かしたいのである。失敗を無くして、向上したいのである。

時間軸を長く取れば、より良い人生を生きたいのである。そのことを具体的に言えば、人生に失敗したくない、思った通りになって欲しいのである。直裁に言えば、快適に、効率的に生きたいのである。

 

これを抽象化すると以下のようになると思う。

 

改良、改善、向上、勤勉、役立つ、知識獲得。これらの行為、志向の本質は、より多くの快適さを得るために、選択の幅を狭めること、だと思う。選択の幅を狭める、とは、目的達成のために、手段を選別することである。もしくは目的自体を選別することである。

失敗しなくて快適ではあるが、失敗もせず、未知のものに出くわさないので楽しくない。そう言う人生を志向していると思う。

 

このことに思い至ったとき、なんや、あほくさ、と思った。“幽霊の 正体見たり 枯れ尾花” を思い出した。

私の人生を漠然と急き立てていたものの正体が、何と、より多くの快適さが欲しい、だったのである。

こんなものの為に、穏やかな時間や、意外なことに出くわす楽しさを犠牲にしていたのである。