私は記録魔である。3年ほど前からコーヒー豆を焙煎しているのだが、焙煎後どれだけ豆が軽くなったかの焙煎率と、焙煎中の一分ごとの温度変化を記録している。紅茶や緑茶をいれるときの湯温と抽出時間も記録している。
今朝ぼんやりとしていると、ふとビタミンの特性の一覧表を作って、調理法に応用したいなぁ、という考えが浮かんできた。帳面に書くか、このドキュメントに打ち込むか、どうしようかなぁ、と考えていると、何故かそれらのことがひどくバカバカしく思えてきた。
何と言うか、自分の自由裁量を自分で狭めている気がしたからである。チマチマ生きている気がしたからである。
で、記録することについて考えてみた。
そもそも何故記録するのか。次の時に利用しようと思っているからである。次の時に利用してどうしたいのか。より良くしたいのである。前回の教訓を生かしたいのである。失敗を無くして、向上したいのである。
時間軸を長く取れば、より良い人生を生きたいのである。そのことを具体的に言えば、人生に失敗したくない、思った通りになって欲しいのである。直裁に言えば、快適に、効率的に生きたいのである。
これを抽象化すると以下のようになると思う。
改良、改善、向上、勤勉、役立つ、知識獲得。これらの行為、志向の本質は、より多くの快適さを得るために、選択の幅を狭めること、だと思う。選択の幅を狭める、とは、目的達成のために、手段を選別することである。もしくは目的自体を選別することである。
失敗しなくて快適ではあるが、失敗もせず、未知のものに出くわさないので楽しくない。そう言う人生を志向していると思う。
このことに思い至ったとき、なんや、あほくさ、と思った。“幽霊の 正体見たり 枯れ尾花” を思い出した。
私の人生を漠然と急き立てていたものの正体が、何と、より多くの快適さが欲しい、だったのである。
こんなものの為に、穏やかな時間や、意外なことに出くわす楽しさを犠牲にしていたのである。