imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

人生と効率 目的と手段の効率化 2023年1月

以前にも似たようなブログを書いた。

https://imakokoparadise.blog.jp/archives/17858988.html

 

ぐだぐだ書いて分かりづらいので、もう一度考えてみた。

 

私の問題意識は、効率を人生に適応していいのか、である。別の言葉で言うと、人生にコストパフォーマンスを求めてよいのか。 もし問題なのだとすると、何が問題なのか。

 

まず、効率を適用する対象を分けると、

1 効率の良い目的を設定する

2 効率の良い手段を選択する

になると思う。

 

では1の目的設定について  

目的を設定するとき、効率のいい目的を選ぶという行為についてである。

その問題点について

1) そもそも具体的目的として設定できない場合

平安やしあわせはそれ自体を目的に設定できない。これは二つの意味で設定できない。

1)) 例えば、しあわせになる、という目的を設定してもその具体的手段は決まらない。どうすれば幸せになれるのか、雲をつかむような話である。

2)) しあわせになるためにある具体的な目標を決めて、ふつうそれを夢と呼ぶが、その夢を達成した時にしあわせを感じても一時的で継続しない。ある行為を目的として設定した場合、それを達成すると目的は達成され、その事実は消えない。例えば、富士山に33回登頂する、などだ。しかしある心の状態を目的に設定すると、一時的にはその状態を維持できるが、時間とともに消失していく。

ある心の状態は、何かの目的を達成して得られるものではないのだ。

 

故に目的自体が設定できないので、効率云々以前の話である。

 

2) 予測不可能性の高いことを目的に設定した場合に生じる困難

予測しにくいものごと、つまり計算不可能性の高いものごとについては、当たり前だけれど、効率化することが難しい。具体的に言えば、未知なものごとについては効率化できない。例えば人や夢である。ある人に対してある目標を立てても、その人の反応は予測できない。人の反応は予測不可能である。また、将来の夢は必ず未知を含んでいる。既知だけでできたものを将来の夢とは呼ばない。それは形容矛盾である。

 

故に予測不可能性の高いものごとには効率を求められない。もし効率を求めようとすれば、未知を含むものごと、具体的には人や夢、からは退却せざるを得ないだろう。言い換えれば、予測可能な人生を選ぶ、無難な人生を選ぶ、ことになる。

 

3) 効率の良い目的を選ぶ場合に生じる問題

投入したコストに対してリターンのより大きな目的を設定する、ことの問題は、本当にしたいことを選ばない、ということである。感情の軽視である。これは2の2)で説明する。




次に2の効率の良い手段を選ぶことについての問題は

1) 倫理的に違和感がある場合

例えば、大切な人を喜ばせたい、という目的を設定した場合、その目的自体は非常にまっとうなものだと思うが、それを実行する手段を選ぶとき、なるだけ少ないコストで相手を大きく喜ばすにはどうしたらいいか、と計算することは、心理的に抵抗がある。なぜなら大切な人が本当に求めているのは、具体的な物やことではなく、私の気持ちだからである。

大切な人とは尊重されるべき未知なる生き物である。ある情報をインプットしたら、自動的にアウトプットが計算できるような物体ではない。

 

2) 効率の良い手段を選ぶ、という行為自体に付きまとう問題

1の3)と同じ問題だが、効率の良い手段を選ぶということは、その過程の楽しみを重視しない、ということである。”道草”をせず目的一直線である。楽しいから一直線ではなく、効率がいいから一直線なのである。つまり感情の軽視だ。

 

脱線するけれど、いやいや過程、道中を楽しまなくても、目的に近づくこと自体が楽しいのだ、ということはある。しかし、目的に近づくことを楽しみにして目的を達成するのだ、という考え方は、実はその過程が楽しくないので、敢えてそれを取り入れているに過ぎない。それを本人が意識した時点で、目の前にニンジンをぶら下げているのと同じことになる。

 

話を戻せば、効率がいいから一直線、とは、その過程の体験を重視しない、ということだ。体験とは、事実認識と感情がセットになっていると思うが、この感情が重視されていないのである。

 

ここから仮説 

 感情軽視の原因は、自分の感情を信用していないところからきていると思う。自分の感情も、無意識に支配されていて未知である。未知なものは効率が悪いので、排除しているのかもしれないし、自己肯定感が低いので、自分の感情を大切にできないのかもしれない。意識的には前者で、その本質は後者かも知れない。

仮説終了

 

以上、目的と手段の効率を求めた結果の最大の問題は感情軽視だと思う。

で、感情軽視は何をもたらすのか。

1 自分を含めた人に適用する場合  

効率が悪いから感情を軽視するという態度は、関係によって得られる喜びの感情を軽視することにつながる。それは人間関係を疎遠にするだろう。共感することに価値を置かなくなっていくだろう。共同体は解体に向かい、人は孤立して鬱屈する。もちろん共同体を前提としたシステムもうまく回らなくなっていく。つまり効率を求めたのに、結果として非効率になるのだ。

 

2  人も含めた全体への適用

省略できるものは省略しましょうという感情軽視は、その過程で得られる感情にまつわる手触りのある体験、ビビドな体験の機会を奪う。

体験を自分の価値体系に取り入れた時、経験になると思うが、感情を伴った体験の喪失は感情を伴った経験の喪失につながり、経験の少なさは、世界の希薄化、世界の実感の無さにつながると思う。人生を空疎に感じるかもしれないし、万能感を持つかもしれない。



 

以上が私の考察である。

で、まとめるとどうなるかと言えば、住みにくい世の中になるだろう、と思うのである。

しかし私たちはこれを果たして変えられるのか、とも思うのである。

 

余談

 

これはまだよく考えていないが、効率とは近い将来の、つまり時間軸の短いリターンを求めた概念だと思う。もし10年や100年と言うような時間軸の長いリターンを多くの人が求めることが出来るようになれば、本論で心配したようなことが起こりにくいのではないか、と思う。

そしてやはり思うのである。果たして私たちが間近のリターンよりも100年後のリターンを大切にできるのだろうか、と。