imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

人はしばしば間違えるものである 2022年10月

よく知られていることだけど、知らず知らずのうちに私もその罠に落ちているので、再確認したいと思う。

 

人が判断をするとき、以上の行為をしていると思う。

 

1  まず自分の目の前にたくさんの事実(正しいとされる論理も含む)があって、判断をするのに必要だと思う事実をその中から選択する。

 

2  次にその事実から論理を組み立てる。

 

3  最後に、その論理から帰結される結論を得る。



ではどこに間違いの可能性が隠れているのか。

1  まず何よりも、目の前に必要な事実が並んでいない可能性がある。知らなかった。気が付かなかった。その可能性はいくらでもある。

これが間違う一番大きな理由だと思う。

 

2  事実の選択が不適切な可能性もある。しかしある程度経験を積めば、また全体が見えていれば、それほど大きな間違いはないと思う。

 

3  論理の組み立てミス。これも経験を積めば、間違う可能性はほとんどないだろう。事実が出揃えば、結論はまず一義的に決まってしまうように思う。

 

4  直接には間違うことと関係がないが、自分で事実を選択し、それを組み立て、結論を得ると、それに固執するものである。薄々は分が悪いな、と気づいてもなかなかそれを認められない。これは間違いが訂正されない大きな理由だと思う。

非常に漠然とした話であるが、自然科学の新発見は、若いときからの主張が後年に事実が確認されるということが多い。他にもいろんな人がいろんなことを言っているのだが、ほとんど主張を変えることなく年を取り、時期が来て誤りが確定する。

つまり自分が思いついた結論はなかなか手放せないのだと思う。

 

以上、繰り返すと、大事なものがそもそも生板の上に載ってない可能性がある。それは自分が知らないからだが、知らないが故に、誤りに気が付かない。

だから自分の得た結論は間違っている可能性がある、と言う前提に常に立つのが賢明だと思う。

なかなか難しいとは思うけれど。

新しい事実が出てきたら、木っ端微塵なのだから。