imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

高い能力はなぜ称賛されるのか

世の中にはある能力に長けた人たちがいる。記憶力、頭の回転の速さ、統率力、論理的思考力、抽象化能力、言語化能力、運動神経、反射神経、水平感覚。

 

それらは人々の称賛を受ける。

大はオリンピック金メダリストからノーベル賞受賞者まで、小は市民フットサルのセンターフォワードから職場の“出来る人“まで。

 

ところで人々はなぜ能力の高い人を称賛するのだろう。

そもそもの起源は、ヒトの祖先、ホモ属が集団生活をしていた時、力の強い人は狩りに長け、他集団との闘争に長けていただろう。工夫する能力のある人は、生活をより便利にしただろう。記憶力の良い人は、生き字引として重宝されたことだろう。そのことは集団の生存率を上げたに違いない。仲間のために使うから価値があり、周囲から評価されたのだ。集団に利益を分配することが前提の社会では、ある能力に長けていることは無条件で集団にとって良いことだったのである。

 

言い換えれば、集団、共同体に寄与するから称賛されたのだと思う。当たり前だけれど、卓越した能力の持ち主が、森で一人で暮らし、全く自分のためだけにその能力を使っていれば、周囲の人たちはその能力を称賛しなかったと思う。実際には社会から孤立したそのような個人は存在出来なかったと思うけれど。

 

振り返って、今の世の中を眺めれば、能力があるだけで称賛される傾向が強いと思う。能力を無条件で称賛することが、遺伝子上に載っているのかどうか知らないが、社会の前提条件が変わっているにもかかわらず、かっての志向が生き続けているのではないかと疑う。

 

独創性に富んだ人が、新しい原理を発見して、特許を取り、会社を興して富豪になったとき、人々はその人を称賛するだろう。その原理が社会を豊かにするとしても、その金銭的利益を全く自分のためだけに使うことはかつての共同体から見れば外れた行いだろう。

オリンピック金メダリストが、ただ自分の暮らしを安泰にすることだけを考えて競技に参加し、その後の名声もすべて自分のためだけに費やすことは、かつての共同体から見れば外れた行いだろう。

意識することは、人々は何に対して称賛しているかと言うことだ。富豪になったということ自体を称賛しているのであれば、それでいいと思う。しかしかつての共同体のように、利益を皆に還元することを大切な価値にしているのなら、つまり人は共同体の中で生かされているのだ、と思う人は、その人のその後の生きざまを気にかけるのが良いと思う。