imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

価値について 公共空間で振る舞う基準

北丸雄二というジャーナリストが、アメリカでは自分の価値を公共の場で実現しようと、自己主張する伝統がある、というようなことを書いていた。それに刺激されて、考えてみた。

 

日本にはそういう意識は弱い。自分の価値を主張して、公共の場を変えていこう、という習慣はほとんどない。波風を立てないで、皆とうまくやっていこう、と言うのが日本の習慣だろう。

自分の価値を公に反映させる、とは、自分の価値を信じているからできる。つまり自分の価値に裏付けがあるのだ。その裏付けとは、皆の為になる、ということだろう。皆のしあわせになる、ということだと思う。当たり前だが、自分の利益の為に皆の前でその価値を主張はできない。皆の同意が得られないからだ。つまり自分の損得を超えたところに価値は生じる。

価値とは、皆の幸せを願っている、という裏付けがあって、皆の前で主張できる。価値とは、そもそもそういうものなのだ。別の言葉で言えば、正しさ、と表現できる。正しい、と信じられるからこそこだわれる。皆の幸せになると思えるから、きちんと説明すれば皆の同意が得られる、と信じて、たとえ少数派であっても、孤立していても主張し続けることが出来る。価値があるとは、そういうことだと思う。

 

以下ここで使う ”価値” は、上記のような意味、社会的価値という意味で使う。

 

◎  以上のように考えれば、日本には価値がない。日本には、正しさにこだわる、という習慣がない。あるのは、周りに合わす、という習慣だけである。

周りに合わす、とは具体的に言うと、集団内での振る舞いを共感に基づいて決める、ということだと思う。もし私が相手だったら、と想像して、相手への対応を決める。これは家族や仲間に接するときの振る舞いかただ。集団が均質的であれば、より大きな集団でもこの振る舞いでそれほど問題は生じないだろう。だが異質の文化を持った人たちが集団内に存在すれば、共感では対応できない。共感はお約束によって支えられているからだ。つまり、されたらお返しをするお約束である。お歳暮を贈ったが、相手から返ってこなければ、お歳暮の文化は継続しない。相手に共感したが、相手に共感されなければ、共感の関係は作れない。こちらは共感で対応していても、相手が別の原理、例えば正しさで対応すれば、共感で対応し続けるのは難しくなる。

また、関係が遠い人に対しても、共感で対応するのは難しい。見ず知らずの、今後二度と会わないだろう人に、相手の身になって接するのは難しい。別の言葉で言えば、全ての人に対して、家族に対してのようには接することは出来ない。

つまり共感は親しい集団の外側の原則を示せないと思う。別言すれば、共感は普遍的価値を作れない。

そこで必要になるのが、価値・正しさなのだ。もし共感が社会全体に適用可能だったならば、そもそも価値が生じる必要がなかった、と思う。

 

◎日本についていえば、都市化したにもかかわらず、価値が無くても共感だけでやってこれたのは、集団の文化が均質的だったからだ。見ず知らずの人に共感で接しても、相手も共感で接してくれた。日本は永らく伝統的村落社会だったのだ。

ところが、70年代から80年代にかけて、自由市場経済が発展し、価値の多様化が起こると、共感では対応できなくなった。例えば、地域社会に、新住民が入居してきた時だ。それまでの思い遣りに基づいたゴミ出しが維持できない。ごみ置き場の周辺の家への思い遣りはなくなり、好きな時間にゴミを捨てるようになる。思い遣りによるゴミの捨て方を旧住民が指導しても、共感を感じれない新住民は、従えない。もし社会に価値・正しさがあれば、旧住民はそこを拠り所にして自己主張することが出来る。が、価値は無いので、注意して言うことを聞かなければ、傷ついて、それを埋め合わせるために相手を見下して、反発してお終いである。傷つくのは、相手との間に、価値を言うバッファゾーンがないために、直接に自分が否定された気分になるからである。そして理解し合えない同士の分断が残る。

更に起こることは、好きな時に新住民がゴミを出していいのなら、なんで俺たちだけがルールを守らなければならないのだ、なんで俺たちだけが損をしなくてはならないのだ、と価値がない故に旧住民からもルール破りが現れてくることだ。後はなし崩しである。ごみのポイ捨てもそうだが、地域の1~2割がポイ捨てを始めると、それ以外の人も、なんで俺だけがルールを守らなければならないのだ、なんで俺だけが損をしているのだ、と、一挙にルールが崩壊するように思う。これも価値のない社会がその行為を加速させていると思う。共感型集団の共感が消失すれば、後は無秩序である。つまりは損得だけだ。

 

◎掟と法

 

掟と法の存在理由は、秩序の維持、だがそれを維持する手段が違う。

掟  相互の信頼によって集団の秩序の維持を図ろうとする。よって、お互いの顔の見える関係でしか生じない。信頼とは、相手を裏切らないことである。相手に迷惑を掛けないことである。されたら嫌であろうことをしない、ことである。つまり掟は共感を基礎にして維持される関係なのである。

別の言い方をすれば、掟とは相手の期待に応えることである。では相手は何を期待しているのか。それは人によってそれぞれだ。その時々で忖度するしかない。つまり掟は普遍的価値を作れない。

 

信頼はフィードバックが効く、つまりいくらでもお互いが先読みが出来るので、無限に強化される可能性がある。

 

法  法は見知らぬ人を秩序に従わせるために意図され、、言葉化され、その結果として存在する。仲間の外側の人たちを従わせるためには、その人たちがある程度納得する正しさ、つまり普遍的価値が必要になる。つまり法は正しさによって集団を維持しようとする。

 

任侠映画の「義理と人情の板挟み」とは、義理、つまり世話になって信頼関係にある掟と、人情、つまり正しさに身を置きたいという法を尊重する気持ちとの板挟みのことだろう。

 

◎価値がないとはどういう状態で、なぜそれが生じるのか。

 

価値がないとは、以上の考察から、皆の幸せを考える必要がない、という状態のことだと思う。以下具体的には

 

1 統治に満足している。つまり統治者が考えてくれるので、集団構成員個人が考える必要がない。

日本がこれに相当すると思う。第二次大戦の敗戦という統治者の大失敗はあったが、それを除けば近世以降おおむね良い統治が続いてきた。もし日本が侵略され、植民地にされていたら、被支配の中で、日本人・日本文化を強く意識し、日本国内という限定付きではあるが、日本的価値を作る機会があったと思う。被支配によるアイデンティティーの覚醒・自覚が価値を作る可能性があった。

 

2  統治に不満である。具体的には、支配層が皆の利益をかすめ取っている。

個人が皆の利益を考えて行動しても、その利益が自己に還元されると思えず、他者に流れるだけ、と感じれば、皆の利益を考えなくなると思う。ただ価値のある社会でも、この状態が続けば皆の幸せを考えなくなるだろう。

例えば中米の社会がこれにあたると思う。彼らの行動を見ていると、仲間以外は全て敵、という印象を受ける。知らない人に利益を渡すくらいなら、その前に自分が全部取ってしまおう、という印象を受ける。例えば公共トイレにあるトイレットペーパーを使い残して見知らぬ人に使わせるぐらいなら、全部持って帰ってしまおう、のようなマインドだ。中米の政権はころころ変わり、それぞれが腐敗している。国民の利益を自分の関係者の懐に流すのは当たり前だ。それが国民の多くに上記のような行動をとらせているのだと思う。以上は村落共同体が崩壊して無秩序になった都市部の話で、特に先住民の農村は未だに非常に強い伝統的村落共同体が息づいている。

 

 (番外)3  共感で対応できた。つまり同一文化圏が存続してきた。相対で問題が生じないので、わざわざ全体のことを考える必要がない。現代でも比較的孤立した集団では存続し得ると思う。

例えば、アフリカの部族社会やアマゾンのヤノマミなど。掟が支配している社会だろう。

 

◎日本固有の理由

 

日本はこれだけの都市化した社会であるにもかかわらず、共感を基礎にした中間集団が最近まで存続していた。

宗教は一つの価値を提示している。キリスト教は世界中で流布している。それは普遍性があることの証明になる。つまりほとんどのキリスト教社会は価値を持っているだろう。

イスラム教も事情は同じである。中東から始まって、アフリカや東南アジアに広がった。

韓国のことはよく知らないが、中国は四書五経の国である。民族を問わず、四書五経を修めれば、誰でも科挙に合格して官僚になれた。つまり普遍的価値がある。

つまり価値を持たなかった日本はかなり固有の事情があったと思う。

 

それは何だろう。

 

価値がないとは、信じられるものがない、ということだ。日本には古来2つの大きなの価値がやってきた。仏教と儒教。そして国内では神道が生まれた。しかし加藤周一を援用すれば、前2者については、日本に入ってきたとき、抽象的・理論的な普遍の価値体系は解体され、具体的・実際的な信仰に変化していった。例えば現世利益だ。神道については、そもそも抽象的な価値体系を志向しなかった。

もともと抽象的な価値体系を受け入れる下地が弱かったのだと思う。永遠性を求めず、今この瞬間に感覚を研ぎ澄ませる。

一つの民族が全体として抽象化能力が劣っているということはあり得ない。ではその態度を培ったものは何だろう。

以下は私の仮説。

1 隣国が大国であった。つまり大切なものや進んだ考えは隣からやってきた。自ら苦労して作り出す必要がなかった。

2 島国であった。つまり侵略されにくく、安定期が長かった。異民族支配の経験がなかった。それは民族存続のための核という価値を求める必要がなかった。

以上の恵まれた条件が、抽象より具体を好む性質を形作ったのだと思う。

 

◎ 共感が焼失し、しかも価値がない集団内での具体的現象

 

共感が失われたとき、共感によって成り立ってきたある伝統的習慣が、その正しさを主張し得ないがゆえに、なし崩し的に崩壊していく。そして最後は自分の判断を保留して多数派に従う。そこには確信を持った主張や、正しさによる徹底抗戦はない。価値がないから当たり前なのだが、覚悟が決まらないのだ。

であるから、ものごとが決まる具体的風景は、議論なしの多数決である。場の雰囲気である。

 

◎人々が価値を持つためには

 

幾つかの方法があると思う。

1 宗教のような大きな価値体系を信じる。当たり前だが、世界宗教には普遍的価値があるだろう。故に日本人も信じることが出来る。

2 自らの価値を作る。自分で作り上げるのは手間暇がかかるが、最も手っ取り早いのは、共感を拡大することである。共感の適用範囲は仲間のような内集団までである。通常はその外側に適用できない。そこを意思して外側にも適用するのである。つまり、お天道様(世間的基準)に顔向けできないことはしない、のではなく、自分(自分固有の価値)に顔向けできないことはしない、というように。

以上、多くの日本人にとっては、2はもちろんのこと、1も意思するしかない。意思するとは、選択して、決意することである。

 

◎人を動かすもの  集団とかかわるときに心の拠り所になりうる基準  行為基準

 

集団に相対した時、拠り所になりえる基準は以下の3つがあると思う。

1 価値。今まで論じてきたものである。正しさを物差しとして集団に相対する。正しいことは相対的なので、その中から一つを選択するためには、意志の力が必要だ。

2 共感。 内発的、つまり自然に内から湧いてくる感情。共感を基礎にして人と接する。

3 損得。生物由来の快感情に従って行動する。遺伝子にプログラムされている。