子供のころ、魔法を信じていた。もともとそういう傾きがあったのだけれど、テレビアニメ「魔法使いサリーちゃん」のある回で、サリー家に伝わる魔法大全のような門外不出の本がある子供の目に留まることになった。その子供はいくつかの魔法の使い方を見てしまい、自ら魔法が使えるようになる、という話があった。
その話はひどく私の心を捉えた。魔法使いの能力はその血筋によって決まると思っていたが、普通の人でもその方法を知れば、魔法が使えるようになるのだ、と。
それ以来いろんなまじないめいたことや呪文めいたことを試してみたが、どれ一つとして魔法が叶ったことはなかった。
ところで、私は記録を取るのが好きである。料理を作れば必ずレシピを作るし、コーヒーを淹れれば、必ず抽出条件を記録した。
レシピや抽出条件を記録する目的は、もちろん再現可能性を期待しているからだ。たまたまおいしい調合法で料理を作ってしまったとき、レシピを作っておかなければ、その情報は失われてしまう。
さて、ここで魔法がかかわってくるのである。たまたまおいしい調合法、とは具体的に何を期待しているのか。
私の場合、僅かの配合の違い、僅かの抽出法の違いが、劇的な味の変化につながるのではないか、と期待しているのである。言語習得年齢にクリティカルポイント(6歳前後)があるように、料理についてもまだ知られていないクリティカルポイントがあるのではないか、と。
魔法をある意味信じているのである。
この魔法を信じる心性はどこから来るのだろうか。多分平凡な日常の外側を求める心からきているのだと思う。何かすごいことが起こらないかなぁ、という気持ちである。広く言えば、未知を求める気持ちだ。
未知を求める気持ちの基層の上に、非論理的な超常現象を信じる気持ちが合わされば、魔法が生まれるのだと思う。
未知なるものを求める気持ちは誰でも持っているだろう。では超常現象を信じる気持ちはどんな時に生じるのだろう。論理的な工程を踏んでも、ワクワクするような未知を想像出来ないときだと思う。逆に言えば、それだけ現実の世界に追い込まれている、とも言える。
大学受験の時、友達が、大洪水が起きないかなぁ、とよく言っていたのを思い出す。
かっての私、特に子供のころの私は、現実に追い込まれていたのだろうと思う。もちろん子供によくあるファンタジーを夢見ていたのでもあるが。
20年以上記録を取り続けたコーヒー抽出については、抽出方法の変化と、味の変化は劇的にではなく、なだらかに推移するのだ、という結論に至り、魔法の出現をあきらめた。