ワープロやパソコンが普及する以前は、書き損じてはならない文章を紙に書くことがあった。公式の場で人に見せる文章や手紙にしたためる便箋などである。清書のことである。
清書をするときの心持ちは、姿勢を正す、であろう。その精神を掘り下げれば、尊いものに接するので、清らかな心でそれと向き合い、その一期一会の出会いを大切にする、ことだと思う。
しかしワープロやパソコンの普及によって、清書をする機会が無くなった。上書きが可能になったからである。結果、紙に向かって姿勢を正す機会が失われた。便箋もただの紙切れになり、独特の緊張感を醸し出さなくなった。
私は習字が好きである。墨汁は百均で買ってしまうが、和紙に向かって 筆で字をいれるときの緊張感や、意図せぬ筆の動きや和紙のにじみの意外性が何とも言えず楽しい。
思い返せば、書道とは清書の精神の塊だと思う。墨をすりながら心を落ち着かせ、書き損じのできない和紙を目の前にしたときの緊張感、えーい、ままよ、と筆をいれるときの清々しさ。
書道を大切にしてきた日本人は清書の精神を尊んだのだと思う。
考えてみると、華道も茶道も基本の精神は同じではないかと思う。それぞれ流派があって、枝振りや点前の方法が違うが、清らかな心で向き合い、その一期一会の出会いを楽しむ、そのことに尽きるような気がする。
特に現代のように、効率が重視されている社会で、清書の精神を意識する、実践することは、心の平安を保つ良い機会だと思う。