平安時代の王朝文学には春の残り香や恋人の残り香を名残惜しむ記述がある。朝に帰って行った、恋人の匂いを枕に感じて名残惜しむ、と言うように。
私たちにはそこまで風流な経験はあまりないだろうが、台所で調理をした後、閉め切ってあった隣の部屋に行ったときに、先ほどの調理の香りが残っていることがある。あまり風流ではないが、残り香を感じる瞬間である。コーヒーを淹れてしばらくした後、トイレに行くとその残り香を感じるときもある。
さて、この風流とは言い難い残り香に以前から疑問を感じていた。なぜ香りを出した当の部屋に居てたのに、香りを出していない隣の部屋に行ったときに残り香を感じるのか、と。当然、当の部屋のほうが香りが強いから、香りの弱い隣の部屋に行っても、鼻が慣れて香りを感じないはずである。だが実際は隣の部屋に行ったとき、てんぷらのにおいや、コーヒーのにおいを感じるのである。
最近その疑問が解けた。てんぷらをした後、私は別の調理をして台所が別の香りで充満してしまっていたのである。だから私の鼻はそのにおいに慣れてしまっていた。既に台所はてんぷらのにおいが消えてしまっていたのである。だから隣の部屋に行ったとき、僅かに残ったてんぷらのにおいを感じたのである。
つまり私のいる場所は、常に私が何らかの活動をしているので、次から次へとにおいを発生させているのである。私の近辺でにおいが発生し、同心円状にそのにおいが広がっていく。私が作ったにおいが次から次へと波のようにその同心円を追いかけていく。
音についても同じことがいえると思う。生きている限り私は常に音を出し続け、同心円状に音波を次から次へと作り出しているのである。もちろん自分の出した音を先回りして聴くことは出来ないだろうが。
ある意味、生きるとは、自分を中心にした周囲の環境を変えていくことなのだと思う。
私たちはあまり嗅覚が良くないので残り香のことをほとんど意識しないが、イヌなら、常に人が作り出すにおいの波攻撃を感じているかもしれない。