imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

共同体 3 利他行為

利他行為 

人は親しい人には当然のように利他行為をする。家族や親友。そして利他行為の及ぶ範囲は仲間として意識される。いや、仲間として意識するから利他行為が出来るのだろう。家族の各構成員が利己的(ここでは純粋に自己の利益を求めることとする。まわりまわっての自己利益は除外))に振る舞えば、家族は成立しない。

ではなぜ利他行為をするのか。共感の構造から考えると、相手のなかに自分を見るからだ(前ブログ”共同体”参照)。相手のなかに自分を見て、その自分に対して行為をする。だから利他行為とは相手の中の自分への利己行為とも言える。同じように、共感は相手の中の自分を大切にする自己承認行為とも言えるだろう。

逆に言うと、相手のなかに自分を見れないと、利他の感情は起こらない。一般に寛容な人と言うのは、利他の範囲が広い人のことだ。最大範囲は人類すべて、さらには地球上の生き物すべてに拡げられる。不寛容な人、排他的な人は利他の範囲が狭い人だ。

ではなぜ利他の範囲が、人により、またその時々によって差が出来るのか。

人により差があるのは過去の経験が違うからだ。他者に侵害された程度が大きい人ほど他者への拒否感が強く、相手のなかに大切な自分を見るどころではなくなり、故に共感できず、故に利他行為に及べない。

同一人物のなかでもその時々に差が出るのは、調子の良し悪しがあるからだ。調子の悪いときに、つまり自分を大切に思えないときに、相手のなかに大切な自分を見ることは難しい。

社会とは、当たり前だけど、利他行為によって成り立っている。すべての人が自己の利益のみを追求したら社会は成り立たない。集団を創って増殖してきたヒトは利他を遺伝子のなかに組み入れている。例えば他人に喜んで貰えると何故か自分も嬉しい。ただ人によって利他の範囲に非常な差があるのだ。