未完の「明暗」を別にすれば、漱石最後の作品である。私は後期3部作の中で「彼岸過ぎまで」をまだ読んでいないので、何故この作品が後期3部作に入っていないかは分からない。他の2作「行人」「こころ」は近代的自我が主題であった。本作は直接にはそれを主題にしていない。だから後期の代表作から外れたのかも知れない。
主人公健三の妻の出産にまつわる話、そして養父に、養母に、姉に金を工面するやりとりが主な出来事である。
健三は教員で知識階級に属している。すべてのことを論理的に片付けようとして、妻とは折り合いが悪い。妻は健三の言うことと心の中は違っていると思っている。お互い面倒なので言葉を尽くすこともせず、関係が遠ざかっている。結果すれ違いが起こり心の中で自己弁護や相手の非難に終始する。
しかし健三は学問を修めた人間として論理を疎かにできず、「温かい人間の血を枯らして」も論理的な主張をやめられない。人生をつまらなくしても学問を重視したいと思っているのである。
出産に関しても、男である健三には妻の気持ちが決定的に分からない。養父の強引な金の無心も、養母の控えめな金の無心も、貸す側の健三には借りる側の気持ちが全く分からない。そのため相手の不可解な言動が健三にストレスを与え続ける。
以上のことを日常の些細なやり取りを描写しながら描かれている。漱石の主題は以下のようだと思う。
お互いがそれぞれ相手のことを不可解に思ってストレスを感じながらも、自分の都合よく解釈して生きている。生きていくとは、周囲の人たちとあれやこれやと小さなことにストレスを感じながら、過ごすことだ。たとえ人生に目的を持っていたとしても、日常の様々なことに心を乱され、多くの時間を費やし、道草をして生きているようなものだ。
私の感想
・起こったことは形を変えて継続する、ということを作品の最後に健三は言った。いかにも唐突である。主題に成り得るようなこのようなテーマは、直示するのではなく、物語の中で間接的に表現するものだろう。このテーマを作品の主題と考えても、この物語であれば違和感はない。しかし物語を読んでこのテーマが主題であると気づくのは難しいと思う。
漱石はこのテーマを主題とするつもりで書き進めたが、そこに引き寄せられなかった。そこで仕方なく、最後に明示したのではないかと思う。
つまりこういうことが言いたかったのではないか。人は生きていればあちこちで無用の種をまいてしまう。その種は形を変えて人生に絡み続ける。たとえ人生に目的を持ったとしても、形を変えていつまでも絡み続けるものに煩わされて、目的から外れて人は道草を生きていくものだ。
・ 知識階級と言えども、一皮むけば皆同じなのだ、ということも言いたかったのかも知れない。
・ 一人の視点を借りて物語が進行しておらず、その時々に視点が変わりそれに合わせて各人の心理描写が行われる。つまりいろんな人の心理が描写されている。これは読者を混乱させる可能性があるが、上手く乗り切っていると思う。
付記
・ 町人の言葉、などという記述があり、当時は出身階級によって喋り方が違ったようだ。言葉を聞けば、町民か農民か武家かがすぐに分かったのだろう。多分出身地も分かったはずだ。現代日本では喋り方で階級は分からない。それだけ混合したということだろう。
・ 新開地のように汚い、という表現があった。今なら新開地は新しくできた町だからきれいだと思うだろう。途上国では農村から食い詰めた人たちが都市の隣に新開地を作って住み着くので、上下水道も完備しておらず汚いことが多い。かつての日本もこのようだったのだろう。
・ 外出時に帽子もかぶらないで、という表現があった。当時の中産階級、知識階級は外出時に帽子をかぶったようだ。つまり和服に帽子をかぶっていたのだ。和装から洋装の遷移はまずお手軽な帽子からだったのか。だとしたら次は靴か。しかしそれは思い浮かべるに頓珍漢な気がする。
・ 健三家の下女は巣鴨の植木屋の娘ということになっている。この辺りは江戸時代から植木屋が多かったところである。ソメイヨシノもこの地が発祥地ということになっている。こんなことを知ると、物語に妙に臨場感が湧いてくる。そして植木屋の暮し向きはあまりよくなかったのだろう。