imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 目的と効率 心穏やかに生きるには 2024年4月17日

何から手を付けていいのか分からない時がある。短時間で言えば、調理をするとき、どのタスクをどの順番ですればいいか戸惑う時がある。長期間で言えば、ある資格を取得するとき、何からどの順序で始めればいいか、戸惑う時がある。

 

これは目的が決まっていて、そこに向かう効率的なルートが思い付かないから起こる。つまり効率を求めるから、順番を決めかねて何から始めてよいか分からなくなる。もし効率を求めないのなら、思いついた順に手を付ければよい。結果、悩むことがない。

 

平静な世界が広がるだろう。

 

では調理をする、資格を取る、つまり目的が決まっているとはどういうことか。

 

多くの人は人生に追われていると思う。もちろん私もその一人である。若い頃、生きていくのが面倒に感じることがあった。先日久しぶりに、瞬間ではあったがそんな気分に襲われた。

で、何が起こったのかを内省してみた。分かったのは、「しなければならないことがある」とそのとき頭をよぎっていたことだ。

しなければならないこと、がたくさんあったり、強く迫られていると、生きるのが嫌になるのだと多分思う。

では、なぜしなければならないことがあるのかと言えば、目的があるからである。なぜ目的を持つのかと言えば、よりよく生きたいと思うからだ。より良く、とは、快適に、つまり利己的に、もしくは大切な人の為に、つまり利他的に生きたいと思うからだ。

ではなぜよりよく生きようとするのかと言えば、予想する能力があるからである。予想できるものだから、将来のことを考え、その対策を今とろうとする。「何々しておこう」、とは予想力がなせる業である。

つまり、予想できるから、より良い生き方を思い描き、そのための目的を定め、そして、しなければならないこと、に追われている。場合によっては、生きるのが嫌になる。

 

これはとんでもない矛盾だと思う。

 

今、ここで死んでもいい、もしくは、一生このままここにいて朽ちていってもいい、ともし一瞬でも思えたら、その瞬間は、より良く生きる必要がなくなり、故に目的を持つ必要がなくなり、故にしなければならないこと、から解放される。つまりその瞬間は、平安な世界が広がる。

 

効率を求めず、目的を持たなければ(目的を持たなければ、効率を追求することも出来ないが)、平安な世界が広がるのである。

 

世の中にはオールオアナッシング、100かゼロか志向の人がいるが、その人からすると、効率や目的を持つか持たないかの二択しかなく、持たない選択肢はあり得ないだろうから、今まで通りの生き方になる。

が、世の中には別の志向性の人もいる。100とゼロの間で場所取りできる人だ。その人にとっては上記の記述は参考になると思う。