非常に忙しい毎日を送っていた友達が、南の島でボケっとしたい、とよく言っていた。実際に旅行に行って分かったことは、例えばハワイのきれいなビーチに行って、海辺に置かれた長椅子に寝そべり、コールドドリンクを注文してボケーっとしようとする。しかし注文したコールドドリンクの氷が解けて味が薄くなってしまうので、それを気にしながらボケーっとしなければならない。
コールドドリンクを飲み切って、さて本当にゆっくりしようと思って、美しい海や空を眺める。高い交通費を払ってきたのだから、2 〜3日はボケーっとするつもりだ。
ところが1時間も持たないのである。ソワソワしてきて、あれがしたい、これがしたい、とこんな時に限っていろいろ思い付いてしまう。
そもそも、じっとして1時間過ごすという習慣が無い。
で、傍から見るとボケーっとしているように見えるが、本人の胸の中では小さな虫がうごめいていて、とてもゆったりした気持ちにはなれない。ただ強制的に動かないようにしているだけである。
つまり南の島でボケーっと1時間さえ過ごすことが出来ないのである。
さてここからが本論である。
南の島でボケーっとしたいと思う時、本当は何を求めているのだろうか。ボケーっとするとは、何もしなでボケーっとすることなので、何もしたくない気持ちがまずある。日々、しなければならないことに追われているのだ。仕事や家事、勉強。そして散歩や読書、買い物、筋トレ、家庭菜園の世話。そして自分に課した約束。
つまり何かに追われている気持ちを解放したいのだ。南の島に行けばボケーっとできるだろうと、何も考えずに実行すると、予想に反してそれが出来ず、こんな筈では無かった感に覆われ、以前にも増してボケーっとしたいを渇望することにもなりかねない。
何かに追われている気持ちを解放したいのであれば、いま流行りの言葉で言えば、マインドフルネスを実践することだと思う。もう少し抽象的に言えば、強い変性意識状態を作って自己肯定をすることである。
何もしない、とは実は、いろんな手段を使って自分の心を満たすことだと思う。それを人は「何もしない」と表現するのだ。
その手段を具体的に言うと、例えば、小学校やそれ以前の自分の記憶を呼び出して、その時の自分の無垢さを感じることである。自分の無垢さを感じることは、自己肯定に決定的に大切なことだと私は思う。