imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 南の島でボケーっとしたい または、何もしないとはどういうことか 2023年9月

非常に忙しい毎日を送っていた友達が、南の島でボケっとしたい、とよく言っていた。実際に旅行に行って分かったことは、例えばハワイのきれいなビーチに行って、海辺に置かれた長椅子に寝そべり、コールドドリンクを注文してボケーっとしようとする。しかし注文したコールドドリンクの氷が解けて味が薄くなってしまうので、それを気にしながらボケーっとしなければならない。

コールドドリンクを飲み切って、さて本当にゆっくりしようと思って、美しい海や空を眺める。高い交通費を払ってきたのだから、2 〜3日はボケーっとするつもりだ。

ところが1時間も持たないのである。ソワソワしてきて、あれがしたい、これがしたい、とこんな時に限っていろいろ思い付いてしまう。

そもそも、じっとして1時間過ごすという習慣が無い。

で、傍から見るとボケーっとしているように見えるが、本人の胸の中では小さな虫がうごめいていて、とてもゆったりした気持ちにはなれない。ただ強制的に動かないようにしているだけである。

 

つまり南の島でボケーっと1時間さえ過ごすことが出来ないのである。

 

さてここからが本論である。

 

南の島でボケーっとしたいと思う時、本当は何を求めているのだろうか。ボケーっとするとは、何もしなでボケーっとすることなので、何もしたくない気持ちがまずある。日々、しなければならないことに追われているのだ。仕事や家事、勉強。そして散歩や読書、買い物、筋トレ、家庭菜園の世話。そして自分に課した約束。

 

つまり何かに追われている気持ちを解放したいのだ。南の島に行けばボケーっとできるだろうと、何も考えずに実行すると、予想に反してそれが出来ず、こんな筈では無かった感に覆われ、以前にも増してボケーっとしたいを渇望することにもなりかねない。

 

何かに追われている気持ちを解放したいのであれば、いま流行りの言葉で言えば、マインドフルネスを実践することだと思う。もう少し抽象的に言えば、強い変性意識状態を作って自己肯定をすることである。

何もしない、とは実は、いろんな手段を使って自分の心を満たすことだと思う。それを人は「何もしない」と表現するのだ。

 

その手段を具体的に言うと、例えば、小学校やそれ以前の自分の記憶を呼び出して、その時の自分の無垢さを感じることである。自分の無垢さを感じることは、自己肯定に決定的に大切なことだと私は思う。