imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 他人を評価するときには 2022年12月

他人が何か不可解なことや不快なことをしたとき、それをどう評価したらよいのだろうか。もしくはどう評価したらストレスを最小限に抑えられるのだろうか。

 

1 過去の経験を思い遣る

人にはいろいろ事情があるものである。私たちは対面した相手を無意識に自分と同じ人間だと思い込んでいる。しかし実際は生まれ育った家庭が違い、今まで経験したことが違い、能力とそれを伸ばせた環境も違っている。つまり全く違う人間なのである。

その人が冷淡であっても、よくうそをついたとしても、よく言い訳をしたとしても、よく失敗をしたとしても、よく人の悪口を言ったとしても、よく暴力をふるったとしても、そうなるだけの事情があった可能性が高いと思う。少なくとも、もし自分が同じ環境で育ってきたなら、同じようにならなかったか、と自問するだけの余裕は欲しいと思う。

 

2 今の気分を思い遣る。

1)まず大前提として、100点満点の人はいない。当たり前のことである。誰でも良い部分もあれば、そこはどうかな、と思う部分もある。そして「良い」と評価した部分でさえも、状況が変われば評価は変わってくる。例えば、熟考することは、時間があるときには良く評価されるだろうが、時間がないときには手足まといに感じられるだろう。

2)その人のその時の気分によっても対応は変わってくるだろう。私には関係のないところで、つまり直前に何らかの経緯があって、その時の相手の気分が良ければ、私の気持ちを大切にして対応してくれるだろう。その時気分が悪ければ、そんな余裕は持てないだろう。自分の体験を思い返せば、誰でも納得するだろう。

3)私と対面しているとき、私の対応の仕方で、相手の反応は変わってくるだろう。私が見下した態度をとっているときと、大切に思っていると分かる態度をとっているときでは、相手からの反応が違うのは当たり前だろう。

相手の反応はこちらの合わせ鏡であることがよくある。相手のことを、生意気だ、と非難している人は、しばしば相手に対して生意気な態度をとっている。

よくあるのは、挨拶をしたときに、たまたま聞こえなくて挨拶を返さなければ、あいつは俺を馬鹿にしているのではないか、と悪意が首をもたげ、次に会ったとき相手に挨拶をしない。すると相手も同じことを思い始め、次回は両者ともに挨拶をしない確信犯になっていく。隙間は広がるばかりである。小さな勘違いが小さな疑念を生み、小さな疑念が大きな疑念に成長し、大きな疑念が悪意に変わる。増幅する合わせ鏡である。

 

以上、他人と接するときは、人にはいろいろ事情があること、つまり過去を思い遣ることと、完璧な人はいない、今は気分が悪かったのかもしれない、こちらの対応が悪かったのかもしれない、といろいろの可能性を考えることが大切だと思う。

もちろんそのような人、多くは自己評価が低い人、と親しくなる必要はないが、こちらからきつく対応して相手をさらに傷付ける必要もないと思う。自己評価の低い人はえてしてとても傷つきやすい。

 

で、大切なことは、ここからである。

相手にそれなりの事情があって私に不可解な、または不快な対応をしたのだ、と言うことが分かれば、私もストレスを感じたり、傷つく必要もなくなるだろう。その瞬間は、そもそもその人はそういう人だったのである。

 

以上のように考えると、むやみにストレスをため込む必要が無くなると思う。

 

そもそも人の対応をそれほど気にする必要がないと思う。その瞬間は悪意のある対応にギョッ、とするが、次の瞬間に、世の中にはいろんな人がいるものだ、いちいち反応しているとこちらの身が持たない、と思い出せば、ストレスを感じることもないだろう、と思う。

 

なんだか道徳めいた話になってしまった。