imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 100%素晴らしい人 2024年年4月11日

動画で観たり、本で読んだり、少し距離を置いて接する人に好感を持つことがある。好感を持つので、更に気に留めて情報を集めていくと、ますます好感を持つことになる。気が付けばその人のことを欠点の無い100%素晴らしい人だと思っていることに気が付く。

 

そしてもしその人と親しくなる機会があれば、その人の欠点が見え始めて、そのうちただの人だということを知る。

 

そのような経験を2~3回繰り返せば、多分次回もそうだろう、という予想がつくようになる。

 

多くの人は経験的に納得してその後の人生を、多少は翻弄されながらも生きる。

 

さて、100%素晴らしい人がいない理由を簡単に言うと、100%自分と同じ価値を持った人は世界に存在しないからだ。それだけである。

 

別の言葉で言うと、良いところだけでできている人はいない。欠点の無い人はいない、ということである。

これはよく聞く表現である。この内容を具体的に考えると、良い、とか、悪い、と評価するのは私である。かつ人によって、良い悪いの評価の基準は違う。結局、人によって価値が違う、ということになり、上記と同じことを言っていることになる。

 

なので、何か一つのことが気に入らないから、とか、自分の考えとは違うから、と言ってその人を忌避するのは馬鹿げているし、もったいないことだと思う。むしろ共通する部分が多いことに注目したほうが良い。



以上が100%素晴らしい人がいない根本的理由だが、人には、未知の部分を良いもので埋めよう、とする傾向がある。よく知らない人がいると、その未知の部分を自分の好みで埋めようとするのである。例えば、見知らぬ人と接するときに、たぶん自分と同じ価値を持っているだろう、と思って気安く接してしまうのである。また、既知の部分が気に入れば、未知の部分も好みだろう、と思ってしまう。例えば、美しい後ろ姿だけを見て、容貌も美人かな、と思ってしまう心の働きである。



ところで、世の中には、100%素晴らしい人をしばしば見つけてしまう人がいる。それは以下のことを表現していると思う。

 

自分の心が空虚なので、つい対象物が充実しているように錯覚してしまう。外部にすごいことを期待してしまう。魔法を信じてしまうのである。

 

カサノヴァはこのような人だったのではないか、と思う。