imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 素晴らしい世界 2024年4月10日

ふと、素晴らしい世界がどこかにある、と感じることが若い頃からあった。晴れ上がった青空が広がり、何の抑圧もない、ウキウキとした気分が永遠に続くと感じられる世界である。これは私に限らず多くの人が経験しているのではないかと思う。

 

瞬間、すぐそばに感じられるのだけれど、見極めようとするとどんどん離れて行って、彼方に消えてしまう。

 

30代まではそんな世界が何処かに実在すると思っていた。なぜなら瞬間ではあるが、その存在を身近に感じたからである。が、30代後半に認知科学に触れて、結局は自分の認識次第なのだから、認識を変えて素晴らしい世界を自分で作り出すしかない、と思った。それが私のニックネームの「今ここパラダイス」の由来のひとつだ。

 

先日、素晴らしい世界をまた瞬間身近に感じたので、再考してみた。

 

素晴らしい世界は短時間、短期間であれば大切な人との人間関係で得られる。それは大切な他者からの全承認の世界である。自分の存在を丸ごと受け入れてくれるような相手が存在すれば全承認が得られる。しかしそんな関係が永続することはあり得ない。相手も人間なのだから。

 

そこで登場するのが超越的存在である。例えばキリスト教では、神に祝福される、という言葉があるが、これは神による全承認だと思う。そう思えた瞬間、神に祝福された私の人生、を実感する。素晴らしい世界だと思う。漸減するにせよ、これは永遠に続く可能性がある。

仏教ではどうだろう。仏教には超越的存在はいない。関係があるだけである。だから色即是空が成り立つ。つまり自分の認識を変えれば、世界はどうにでも顕現する。全承認の世界も認識次第ということになる。

 

結局のところ、全承認を感じられれば、素晴らしい世界は顕現するだろう。で、素晴らしい世界が顕現したら、何もせず、ただ最高に気分のいい状態で、そのまま餓死してもいいのかも知れない。



しかしそれにしても不思議な話である。自分の大切な人に全承認されると、なぜ素晴らしい世界が現れるのだろう。大切じゃない人ではだめなのか。人でなければだめなのか。自分で作り出した幻想の存在ではだめなのか。

 

それでさえ本人次第なのだと私は思う。近所の人でも、飼っているペットでも、AIロボットでも、自分の脳内に作り出したもう一人の自分でも、その存在に全承認されていると感じ、それが自分の世界を覆いつくしていると思えるなら、素晴らしい世界を感じられると思う。

 

今はまだAIロボットに恋愛感情を抱ける人は珍しいだろうが、そのうち日常になると思う。脳はその程度の柔軟性を持ち合わせていると思う。