普遍的な人生の悩みには、未来への不安と存在の不安の2つがあると思う。 今回は存在の不安について。
そもそもなぜ生きることは苦しいのか。
生物として摂食行為が必要、かつ社会的生物として他者承認が必要だからだ。
つまり食べ物を得るために、自己評価を下げる不快なこともしなけれなければならない。 狩猟採集時代は、捕食動物が徘徊する草原に、空腹を満たすために出かけなければならなかった。 現代では価値が保存できる貨幣のおかげで、蓄えのある人は労働を省略することができる。しかし承認欲求は全ての人が持っている。なので、相手の心的状態が分からないのに承認を得るために近づいて傷付いてしまうのだ。
しかし生きていくことが苦しくても、強い共同体があれば包摂されて心は安らぐ。狩猟採集時代に存在の不安はなかっただろう。
共同体からの支えがなくなった時、人はむき出しで世界と向き合うことになる。
嫌なことや悲しいことが、存在の不安を露出させるきっかけになる。
1仕事で失敗したり、友達に貶されたり、競争で負ける。 嫌なことを体験すると自分に価値を感じれない、自尊心が毀損される。つまり他者からの承認を感じれず、自分を承認できない。
2大切な人が死んだり、離別する。 悲しいことを体験すると孤独を感じる。関係が切断される。 世界にひとりぼっち。
他者承認不足も孤独も関係性に関わる。 つまり共同体が解体して関係から疎外されている時に、嫌なことや悲しみは更なる関係からの疎外を自覚させるのだ。
そこで姿を現すのが、存在の不安である。 社会の中での関係の希薄さが、置き替え不可能な、唯一の存在としての自分を求めてしまう。
人は社会の中で自分の固有の役割を求める。 置き替え可能な存在ではなく、唯一性を求める。
強固な共同体、例えば家族、には関係の唯一性がある。 親子や夫婦や兄弟だ。
共同体が解体して関係が切れていくと、存在が露出する。 関係の唯一性が切れていくと、存在の唯一性にすがるしかない。 それが存在の不安として意識されるのだと思う。
存在の不安に包まれたとしても、共同体に再包摂されれば、その不安は解消していくだろう。 しかし現代の自由市場主義のもとでは、共同体の解体の流れは止められない。 であるならば存在の不安に今後も向き合わざるを得ないだろう。