雨の中、家の前の通路にずぶ濡れで歩いていたので、妙子、という名前を付けた。カブトムシの雌のことである。始めから元気がなかったが、ゼリー状のえさをあげると、少しずつ元気になっていった。
去年の9月に幼虫で貰ってきて、今年6月に羽化したカブトムシの雄、三郎の容器に元気になった妙子を入れた。ある日見てみると、三郎がオスに対してするように、激しく角で追い立てている。妙子はすっかり弱っている。このままでは殺されてしまう、と思い、妙子を別の容器に移した。よく見ると、後脚が二本と真ん中の脚の片ほうの3本が途中からちぎれている。足場に引っ掛ける爪が3つ無くなっているので、滑ってしまいうまく歩けない。多分三郎に追い回されてエサもろくに食べてないはずだ。ゼリーをやると、自分をしっかりホールドしようと脚を動かすのだけど、爪が無いので、ただ脚をばたつかせるばかりである。脚をばたつかせながら、ゼリーを食べようとするので、少しずつ身体がずれていき、エサ台から落ちてしまう。戻してやると、また脚をばたつかせながら何とかゼリーを食べようともがいている。妙子の生きようとするその貪欲な行動を見ていると、突然あることを思い出した。
1986年、初めての外国旅行でタイに行った時のことである。バンコクの中華街に泊まっていた。中華街を東西に2本の大きな通りが走っている。そのひとつヤワラー通りの横断歩道?(当時横断歩道などなかった。車のすきをついて一車線ずつ皆でわらわらと渡っていた)に、1人の小太りの物乞いのおじさんがいつもいた。ライ病で顔が溶けていて、直視するのが怖かった。そのおじさんが歩行者に向かって、無言で片手を自分の口に持って行っては離す動作を何時間も壊れた機械のように繰り返していた。食べ物をくれ、という意味だ。
私はそのあまりにも直裁な動作、むき出しの欲求を表す動作に嫌悪感を感じた。
何故だか分からなかったが、基本的欲求のあられもない表現に何かひどく嫌なものを感じたのだ。自分ではどうすることもできなかった。
妙子の動作はそのことを思い出させた。
それにしても何故あんな気持ちになったのだろう。
動物には基本的欲求がある。そのひとつが摂食の欲求だ。人間は高度に社会的動物なので、基本的欲求を直接表現することは、はしたないとされている。あの時の物乞いはそこに触れたのだろうか。
それだけではないような気がする。心の底から何とも言えない嫌悪感が湧いていた。
妙子とあの物乞いの共通点は異形であることだ。だとしたら、異形の生き物が生への執着を剥き出しにしていたこと、貪欲に生きようとしていたことに、嫌悪というか恐怖を感じたのかもしれない。
私のイメージをもう少し具体的に言えば、異形、私より死に近い生き物が貪欲に生に執着している姿に私は恐怖したのだと思う。
たとえて言えば、砲弾を浴びて大量出血している人が、無意識のうちに生きようと足掻いている姿に、生き物の生への執着心に底知れぬ恐怖を感じた。そんな感じかもしれない。
今見たら、どう思うだろう。