imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 久しぶりに訪れた場所はなぜ記憶と違っているのか 2024年1月17日

以前にも書いたことがある主題かもしれないが、、、

 

実家に戻ったときに、子供時代によく遊んだ場所に行ってみると、全く感じが違っていて驚かされることがある。

 

この現象を説明するのに、子供の頃は小さかったので、周りの物がもっと大きく見えていたのだ、とか、視点が低かったのだ、と説明される。

 

しかし私の実感、考察から言うと、もっと大きな原因があると思う。

 

例えば10歳の時の記憶があるとする。大人になってそれを思い出すとき、私たちはその10歳の時の記憶を直接に思い出している、と思っている。

 

しかし私は以下のように考えている。

10歳の時の記憶を12歳の時に思い返したとすると、10歳の記憶は12歳で思い出した時に上書きされてしまうのだと思う。14歳の時に思い出せば、12歳の時に思い出した記憶が呼び出されて、その記憶が上書きされ、10歳の時の記憶としてタグが貼られ定着する。つまり10回思い返せば、そのたびごとに10回上書きされてしまう。少しずつ変形しているのだ。思い出す回数が多ければ多いほど変形度合いが大きくなる。重要な記憶ほどしばしば思い出すだろうから、重要な記憶ほど大きく変形している。

 

もし、10歳の時の記憶に常に立ち返って参照していれば、常にオリジナルを参照しているのだから誤差は毎回僅かである。しかし脳の記憶の構造上、無理ではないかと思っている。

 

ではどのように変形されるのか、というと、自分の都合のいいようにである。

つまり自分の都合のいいように思い出すたびに無意識に少しずつ変形していくのである。



「思い出は美しすぎて」という曲があったが、美しくなるように、と、思い出すたびにどんどん変形していったのである。

 

追記

 

全く、人間は幸せな生き物だと思う。まさにポジティブ シンキングである。逆に言うと、思い出の場所には行かないほうが良い、ということかもしれない。

もちろん逆に働くこともあるだろう。忌まわしい場所として記憶していたが、行ってみれば大したことが無かった、と。それはつまり、忌まわしい場所として維持していたほうが、心の安定には寄与していた、ということかもしれない。