imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

仮説 なぜ子供の頃の思い出は無垢さに彩られているのか 2023年9月

先日、前頭葉の発達は二十歳過ぎまで続く、という記述を見た。

 

子供の頃の思考能力と二十歳の時の思考能力は自分では同じだと思っていた。ただ子供の頃はまだ学習してないから、知識の量が少ないから、ものごとをあまり知らないから大人のような考え方が出来ないだけだ、と思っていた。

 

しかし事実は、そもそも能力が無かった、ということらしい。

 

それで思い当たるのは、小学生の頃の思い出と、大学生の頃の思い出の質が私の実感ではまるで違う、ということである。

これまではそのことが不思議だった。なぜ小学生の頃の思い出はこうも心に沁みて懐かしく、大切な私を想起させるのだろう、と思っていた。

 

小学生の思い出は、例えば若狭の海岸で大波に揉まれて海中で転げまわったこと、この海岸にいた絵に描いたようなヒトデ、夏の小学校の掃除の時間に、下駄箱でホースから水が涼しく飛び散ったこと、家の前の公園で寝転がって友達と雲を眺めたこと。

その思い出から心に沸き上がる感情は、一言で言うと、自分の無垢さである。穢れを知らない子供、のイメージだ。

 

それに対して、大学生の思い出は、例えば京都の久美浜に友達と車で行ったときの風景、久美浜で泳いでいるときに中型漁船がこちらに向かってきて轢かれそうで怖かったこと、大学の学食の入り口に置いてあった、よくつまみ食いした定食の見本。

その思い出から心に湧いてくる感情は、それぞれが一言で言えないような複雑な感情である。いろんなものがくっついている。

 

このように、小学生の頃の思い出と、大学生の頃の思い出とは、思い出した時の印象が全く違う。学生の時の思い出に、無垢さを感じることはほとんどない。

 

ひとつのものごとの記憶にはいろいろなタグが付いていて、思い出すときはそれを頼りにして思いだす。そのタグの中には必ず感情のタグが付いている。

私見だが、すべての記憶には感情のタグが付けられている、と思う。

 

で、ここからが今回の仮説だが、

 

1 ものごとを記憶するとき、理性的に処理をすると、理性的なタグが多くなって、相対的に感情のタグが小さくなる。小学生は前頭葉が大人ほど発達していないので、理性的なタグが少なく、相対的に感情のタグが大きくなる。

故に思い出のタグに占める感情タグの割合が大きくなる。それは強い感情が伴った思い出になるに違いない。

 

2  感情は大人になるにつれて発達し、分化し、複雑な感情が生じるようになる。子供の頃の感情はまだ未分化で、種類も少ない。つまり大学生の頃の思い出には、細かく細分化された感情が添付されているのに対し、小学生の頃の思い出には、原型に近い感情が添付されている。

 

ではなぜ小学生の思い出には無垢さを感じるのか。

 

人は万能感を持って生まれてくる。なぜなら一度も侵害されたことが無いからだ。全く満たされた状態、充全感とも言える。しかしそのあとは侵害という不快の連続である。空腹、痛み、寒さ、暑さ、ものが分かるようになると、しつけという侵害が始まる。理由はまだ理解できないので、強制的な自己規制である。自分は悪くないのに従わなければならない。

そのような状態のときに感じるのが、侵害される前のかっての充全感だと思う。この充全感が無垢さの由来になっている。

無垢さとは、穢れていない、と言うように否定によって意味が定義されるが、実は無垢さとは完全な状態を懐かしむときに生じる、肯定によって定義できる感情だと思う。つまり無垢さとは、充全感を懐かしむ気持ちのことだ。

 

以上まとめると

小さい頃は、理性タグを張り付ける能力が弱いので、その代わりに感情タグが強く添付されている。かつ感情が未分化なので、小さい頃の思い出に添付されている感情タグが共通している。この共通している感情タグは、侵害される前の充全感を希求する感情、つまり無垢さのタグである。

故に子供の頃の思い出には無垢さのタグが添付されていて、そのタグが呼び出されて活性化すると、充全であった自分が想起され、充全だった大切な自分が感じられるのだと思う。

 

追記

 

幼少時の無垢さは自己肯定感を支える最後のよりどころである。ここを安全基地として意識し、外界に乗り出すのが良いと思う。