imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

東京ー大阪の車窓より ミカンの特産地の存立条件

1ヶ月ほど前の7月初旬、東京から大阪を新幹線で往復した。小学生の頃、新幹線で大阪ー東京間を往復したことがあるが、静岡県辺りは線路の間際からずっと田んぼが広がっていた。新幹線という最新設備の隣にのどかな田園風景が広がっていたのを不思議な気持ちで眺めていたのを覚えている。

 

昼間の移動の楽しみは車窓の景色である。静岡では茶畑を多く見かけた。その先でミカン畑、愛知では温室が多かった。夏野菜か。

 

僅か500キロの間で、農産物が特化されていた。地理的条件が違うのだ。地形(平地や丘陵地)、地質(水はけの良しあし)、降水量(周囲の高地の有無)。僅かな地形の変化が地質・降水量の差を生み、比較優位が働いて、特産地を形成している。

世界を見渡せば、特産物が多様なのももっともだ。

特産物が確立すれば、人は無名の産地よりも有名な産地の商品を選ぶだろうから、更に特産地化することだろう。

 

私が静岡で見たミカンの特産地の存立条件について考えてみた。

 

江戸時代、和歌山のミカンを東北の人が食べることはなかっただろう。輸送手段が発達していなかったので、ミカンは産地の近くで消費されていたはずだ。では産地の近くとは、どのぐらいの範囲だったのか。それが商圏という概念だろう。紀州藩の商圏はおおよそ紀州藩内だったと思う。この商圏は何によって決まるかと言えば、基本的には輸送手段の発達の度合いである。江戸時代なら、帆船、馬、人力だ。ミカンはある程度保存可能なので、帆船を使えば、値段が高くなっても、購買力のある江戸でなら売れただろう。しかしそれが限度だったはずだ。基本は近隣で消費されていただろう。またいくら購買力があったといえども、オスマン帝国イスタンブルには運べなかった。

 

ちなみに江戸時代の紀州ミカンは、温州ミカンではなく小ミカンと呼ばれる別のミカンだったようだ。以下ミカンとは温州ミカンのことを言う。

 

ミカンの場合、保存が効くので近畿地方、中国地方を商圏と考えると、ひとつの商圏の中では競争が働いて、より有利な産地が生き残る。実際には藩が奨励することがあるので、全くの自由競争にはならないが。

その結果生き残ったのが、近畿では和歌山、四国では愛媛、中部地方では静岡なのだろう。もちろん陸路では遠くまで運べなかったのだから、当時は地産地消の産地がまだ残っていたと思う。

 

その後、江戸末期から明治にかけて、内燃機関が動力になり、輸送技術が発達した。結果、より遠くに、より安く運べるようになった。つまり商圏が拡大したのである。しかし私が調べた範囲では特産地の淘汰は起こらなかったようだ。江戸時代の特産地がその後も続いている。

ミカンは太平洋側の海岸に面した水はけのよい斜面が栽培適地である。つまり今知られている産地以上に多くの適地がある。この時代にそのような無名の産地が淘汰されていったのかもしれない。

 

敗戦後、高速道路も整備され、車も普及し、格段に速く輸送できるようになった。更に商圏が拡大したのである。

 

ミカンの収穫量が最大だったのは、1975年で360万トン、産地の内訳は愛媛県17パーセント、静岡県12パーセント、佐賀県10パーセント、和歌山県7パーセントで、上位6県で63パーセントを占めている。商圏が拡大して、淘汰が働いたのだろう。

 

2018年の収穫量は77万トンで、内訳は和歌山県20パーセント、静岡県15パーセント、愛媛県15パーセント、熊本県12パーセント、長崎県6パーセントで、上位6県で74パーセントを占めている。

 

それぞれの特産地が熾烈な競争をしてきたのが予想される。6県の市場寡占率も上昇している。そして1975年では9パーセントしか占めなかった和歌山県が、2018年では20パーセントを占めている。大変な躍進である。しかし収穫量を見ると、1975年は34万トン、2018年は16万トンなのである。収穫量が半分以下に落ちたのだ。つまり全体の収穫量が激減したのである。

 

その理由は、ひとつには農家の高齢化がある。後継ぎがいないということだ。それはつまり儲からないということである。儲かるのであれば、子供が後を継ぐであろう。

 

もうひとつは商圏の拡大である。自由市場主義の定向進化であるグローバリズム、つまりものとお金の移動の自由によって、世界的な商圏が確立したのである。

具体的には、ひとつには、保護主義貿易が撤廃され、国内産業が保護されにくくなったのである。具体的には関税がゼロ、または僅かになった。

もうひとつは、輸送手段の発達があった。コンテナ貨物船の登場である。これで沖仲仕が不要になった。輸送にかかる人件費が削減されたのである。

 

1975年にはミカンと競合するであろう、オレンジも、グレープフルーツも、バナナも高かった。生のパイナップルも、アボカドについてはそれ自体見たこともなかった。庶民は冬には箱でミカンを買って食べたのである。

今ではバナナ・パイナップル・マンゴーなどが熱帯から、端境期には南半球からお馴染みの果物が輸入されるようになった。

 

以上のように、輸送技術の発達に支えられて商圏の拡大が起こり、特産地が淘汰されていった。

 

この結果として私は新幹線から静岡県の三ヶ日みかんの産地を見ていたのだ。三方ヶ原台地の茶畑を見ていたのだ。

商圏の世界的拡大にもかかわらず、生き残り続けた産地だったのである。

 

余談

 

畑に自家消費用の作物を栽培するということは、金儲けを目指していないだろう。もし金儲けを目指しているのなら、商品作物を栽培するはずである。商品作物を収穫して、それを売ってお金を入手し、自分の欲しいものを買えばよい。生活必需品を買った後、お金が余れば貯金しても、投資してもいいのだから。

 

資本主義とは、資本の自己増殖を目的としている。つまり、資本を投資して、資本を増殖させることを目的としている。

 

当たり前だけど、商品作物を栽培すると言うことは、投資した資本の増殖を期待している。例えば必要経費(食費などの生活費と種や、農薬や肥料といった事業の経費)を差し引いて余ったお金で隣の畑を買って、来年の増収を図るとか。

農家が農業をやっているのを見ていると、何か素朴なものを感じてしまうが、実際にはただの商業活動なのである。当たり前だけど、資本主義の一角をなしている。




温州ミカンの収穫量は以下のサイトを見ました。便利でした。

 

https://ieben.net/data/production-fluit/japan-tdfk/mikan.html