江戸時代の武士の覚悟

先日山形県に旅行に行った。 米沢に行ったおり、以下の看板を見かけた。
要約
戊辰戦争の時、会津藩が友藩米沢藩に援軍の要請をするため二人の使者を送った。 二人の到着を知った米沢藩が早速城内に招き入れ話を聞いたが、既に米沢藩の情勢が変化していて援軍を出すことができなか。
その決定を知った年長の使者は以下の辞世の句を残し切腹した。享年31歳

神かけて誓いことのかなわねば 再び家路思はざりけり

有名な戦国大名最上義光の居城があった山形市にも行った。山形城から東に15分ほど歩いたところに東北地方でも有数の大型木造建築の専称寺がある。この寺は最上義光の次女駒姫を祀ったものだ。
時の関白豊臣秀次が当時東北一の美少女と言われた駒姫に目を付け、渋る義光に、是非側室に,と言い寄り承諾させる。駒姫が京都に着いた年、秀次が謀反の疑いで切腹を命じられ、側室達も連座して三条河原で処刑された。駒姫はまだ正式な側室になっていなかったと言われる。
晩年の秀吉に実子ができたため、養子である秀次が邪魔になり謀反の疑いをかけて失脚させた。そのあおりを受けての処刑である。
享年15歳
辞世の句
罪なき身を世の曇りにさへられて共に冥土に赴くは五常のつみもはらひなんと思ひて

罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき

これら伝えられているところを聞けば、見事な覚悟の決まり方である。

もし日本が昇り調子の時にこのような歴史の寓話を聞けば、覚悟は無くなっていっても豊かな暮らしは続いていくんだなと思えるが、下り坂の時にこのような話を聞くと、彼我のあまりの覚悟の決まり方の違いに、手遅れになったもう取り戻せないものを思ってしまう。