imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

プライベートを話さない人との関係 2023年9月

私がかつて働いていた職場に少し変わった人がいた。皆それぞれに変わっているのだが、その人は自分のプライベートなことを全く話さなかった。生い立ちや経歴はもちろん、家族や今の生活のことも。

 

ではどんなことが話題になるかといえば、芸能情報やその人の趣味である日本の近代史、映画などだった。

 

で、その時私は何を感じたか。話がつまらないのである。そもそも芸能情報には興味が無いが、日本の近代史は面白くて興味があるのだけれど、本当に知りたければ、ネットを開くなり、本を読んだほうが格段に正確な情報が入手できる。本来ならそんな雑談をしながら、相手の背景も少しずつ明らかになっていき、相手の形が浮かび上がってくる。それが楽しいのだ。しかし今回はその手掛かりが与えられない。

会話が2人の間の空間だけで成立していて、2人を包んでいないのだ。上っ面をなぞっただけのお喋りになっている。

 

更に感じたことがある。今ひとつ共感が湧かないのだ。共感とは相手の中に自分を見て、その自分に感情が湧いてしまうことだが、そもそも情報が少なすぎて、相手の中に自分を感じれないのだ。

その彼がしばらく入院したことがあって、職場復帰した時、入院時の病状の話をほとんどしなかった。そのこと自体が、彼の病状を想像することを阻んで共感しにくくするのだけれど、出勤してきた目の前のやつれて、力の無い声で話している彼の姿を見ても、今まで長い時間を一緒に過ごしてきたにもかかわらず、今ひとつ共感が湧かなかった。

 

以上のことから、以下のことを今更ながら私は理解した。

生身の人間が交わるとき、ある程度の自己情報開示をしなければ、相手の背景が想像できず、故に共同身体性を作れず、故に共感を立ち上げれず、結果、豊かな人間関係に包まれた豊かな人生を送れない。

 

追記

 

彼は豊かな人間関係を既に放棄していたと思う。何かしらのトラブルに見舞われてそのことを諦めたのだと思うが、豊かな人生に豊かな人間関係は欠かせないから、豊かな人生を諦めていた、ということになるだろう。もしくはその大部分を諦めていたことになる。

その心情を察することは私には難しいけれど、ひとりで生きて、ひとりで死んでいく覚悟があったのだと思う。