imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

頭の中での一人会話 病気・怪我と一人会話の関係

先日、食中毒になったのだけれど、昨日気が付くと、頭の中で当時の状況を一生懸命に説明していた。あたかも誰かがいるように、説明していた。

 

何故そんなことをしていたのだろう。結構痛かったので、誰かに聞いてもらって、共感して欲しかったのだろう。

床に伏している間、ずっと何かが蓄積して、それを解放させたかったのだと思う。何が蓄積していたのだろう。不安?心配? 

考えてみると、孤独に耐えて、一人で頑張ってきたという感情だと思う。そして、それが共感されたときの気持ちは多分、気丈に振舞っていた子供が、親に抱き上げられた時、ホッとして泣き出すような感じに似ていると思う。

つまり誰の力も借りれない孤独の状況で、不安だけど、気を抜くことができなかった。

病気や怪我は結局は誰の力も借りず、自分で向き合うしかない。そういう意味で孤独である。気を抜くことができないとは、外界の侵害と対峙していた、臨戦態勢にあった、つまり緊張していたと言うことだ。単純化すれば、孤独と緊張。孤独と緊張が何かを積み上げたのだと思う。

緊張は孤独ゆえに生じたので、根本原因は孤独ということになる。

 

以上、孤独により緊張が持続すると、何かが蓄積してそれを解放させたくなる。通常は共感してもらう、慰めてもらって解消させるのだが、相手がいない場合に代用されるのが、一人語りなのだろう。

 

追記

 

大きく捉えれば、現代人の生活は孤独であると思う。自己責任意識が強いので、病気や怪我と同じく、結局は誰の力も借りれずに、自分で向き合うしかないからだ。孤独であれば緊張が導かれ、上記と同じ構図になる。つまり現代は、怪我や病気の時だけではなく、日常生活においても孤独と緊張を強いられていることになる。であるならなおさら話相手の存在が重要になるだろう。