imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

自由について 追加

私の書いたブログ 自由についてを読み返してみると、私の扱った自由の概念が開放感と同じ気がしたので、ウィキペディアで調べてみると、自由とは、「他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っていること」とあった。私の言葉で翻訳すると、他からの束縛を受けないで、自らの意志や本性に従っていること、だ。前のブログ、自由について、では自由の定義を前段だけ、つまり、他からの強制・拘束・支配を受けないこと、として書いた。だから開放感をイメージさせたのだと思う。自由の定義を上記に修正して、後段に焦点を当てれば、以下のようになる。

 

始めに

強制・拘束・支配を、権力によって課されたもの、と考えれば、「自らの意思に従っていること」は基本的人権が尊重されることの意味になる。ここで人を束縛するものは、思想信条や、人種、出自、性別である。「人は生まれながらに自由である」の自由はこの意味で使われている。これが一般的な自由の意味だと思う。

次に、強制・拘束・支配を自らによって課されるもの、と考えると、私が考察した意味になる。ここではこの意味で考える。

 

次に

本性に従っていること、の意味

完全に束縛を受けない状態は無いので、完全に本性に従うことはできない。具体的に言うと、全く束縛がないとは、重要と重要でないことの区別がないことだ。つまり価値観がない。自分も含めたすべてが同じ価値である。自分も含めた世界のすべてが同列に存在している。つまり自分と世界に区別がない。釈迦のような人を除けば、そのような状

態はあり得ない。故に、後段の解釈は、部分的に束縛を受けないことによって、部分的に本性に従って生きる、で良いと思う。

 

本論

人は常に自らの意思に従っているので、或る束縛から逃れれば、それを踏まえて自らの意志を修正するだろう。故に前段が変われば、後段は自動的に変化する。

 

補足

ここで言う、或る束縛から逃れる、とはストコマ(心理的盲点)が外れることだ。なので、ストコマが外れることによって、その外側を意識し、つかの間の開放感を感じ、結果として全体性を回復する。これが自由を感じることだと思う。

 

自由は束縛の内容によって分類できる。

1 束縛を思想信条や、人種、出自、性別と考えれば、社会的自由を意味し、基本的人権を意識している。

2 束縛を快追及と考えれば、哲学的自由を意味し、外側を意識することによって、全体性の回復、豊かな人生を対象にしている。

3 束縛を全てのことやものに囚われないことと考えれば、仏教的自由を意味し、悟りを意識している。