imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 好きなことと得意なこと 河島英五 2022年12月

自分の好きなことと自分が得意なことはしばしば異なっている。その時、どちらを選択すればいいのだろう。

別の言い方をすれば、自分の好きなことをして、もしかしたらそれほど稼げないかもしれないが、楽しく生きることと、それほど好きではないが、自分の能力を発揮できて、お金を稼げて楽な暮らしをすることと、どちらを選択すればいいのだろう。

 

以下は、河島英五に対する私の印象である。事実かどうか全く知らない。

 

私が彼の歌をよく聴いていたのは、高校生の時である。つまり1970年代後半である。特に記憶に残っているのは、「てんびんばかり」や「何かいいことないかな」などだ。今でも口ずさむ曲に「運命」がある。

調べてみると、1980年にアルバム「文明」三部作が発表されていて、この中に「ベナレスの車引き」という曲がある。いかにも彼らしい曲で、数年前に私がバラナシに行ったときによく口ずさんでいた。旅行者から見たインド人の死生観を歌っている。

私が彼の音楽を聴いていたのは、この辺りまでである。これ以降アルバイトが忙しくなって新しい曲を探して聴く心の余裕がなくなった。

その後も彼の名前は時々耳にしたので、相変わらず彼らしい曲を歌っているのだと思っていた。

 

2001年に死去したニュースを聞いた。それからも彼の曲をまとまって聴く機会が無かったが、10年ほど前(2010年)に、1980年以降の彼の曲をある程度まとまって聴く機会があった。

 

それで思ったのである。なんだ、歌いたい曲を歌ってないじゃないか、と。歌詞が河島英五らしくないのである。曲調も演歌または歌謡曲っぽくなっていた。いかにも彼らしい曲は1980年を境に姿を消していったように感じたのである。

で、自分なりに以下のように考えた。

 

彼の声質は、ニューミュージックというよりは演歌に相性が良かった。風貌もそれを後押しした。彼の初期の作品「酒と涙と男と女」はそんな彼のイメージに合致していたと思う。しかし彼には歌いたい曲があった。「てんびんばかり」や「何かいいことないかな」のような、若者のビビドな悩みや、「ベナレスの車引き」や「運命」のような離れたところから人生を見る、少し醒めた態度の曲である。

「酒と涙と男と女」(1975年)の系譜の曲は、「野風増」(1984年)、「時代遅れ」(1986年)と続く。この2曲の特徴は、どちらも彼は作詞も作曲もしていないことだ。そしてこれらの曲はどちらもよく売れた。同じ系譜の曲として他に「生きてりゃいいさ」(自身の作詞作曲1980年発売)を入れてもいい。

そのことが1980年以降の彼の方向性を決めたと思う。ニューミュージックから演歌に軸足を移していった。声質と風貌もそれにマッチしていた。

 

私の独断の想像であるが、歌いたい曲より、売れる曲を選んだ気がするのである。急逝したようなので、人生を振り返る時間があったのかは分からないが、もしあったとしたら、河島英五の心情を思うと私は心が痛い。  

 

死の直前の2001年に発売された「旧友再会」は昔を彷彿とさせる彼らしい曲だと思う。

 

追加

 

「野風増」に、男は夢を持て、という歌詞がある。それを初めて聞いた時、なんだ、女は持っちゃいけないのか、と思った。論理的には、女のことは何も言ってないので、どちらか分からないが、そう受け取ったのである。

河島英五らしくない歌詞だな、と思った。今から見れば、彼には娘もいたので、なおさら違和感がある。

あの時すぐ分かったのだが、彼の作詞でないことを知った。であればなおさら、どうして歌うんだろう、と私は思ったのである。

あの時の気持ちがずっと尾を引いていて、繰り返し私に彼を注目させていたのかもしれない。