世界をどう認識するか、は、人生とは何か、と同意だと思う。世界は生きるに値するか、は、人生は生きるに値するか、の別の表現である。更に言えば、私は生きるに値するか、も結局は同じことを意味していると思う。
偶然と必然からの視点で世界の認識の仕方を考えると、以下のようになると思う。
外界の出来事を偶然と思うか、必然と思うか。
内面の湧きおこる気持ちや考えを偶然と思うか、必然と思うか。
X軸とY軸の座標を作り4象限に分ける。
X軸は外界の出来事を+は偶然、-は必然。
Y軸は内面の反応を+は偶然、-は必然
第4象限 |
第1象限 |
第3象限 |
第2象限 |
第1象限 外界の出来事は偶然、内面の反応も偶然。多対多
人生は混沌。多くの人はここに属している。次の瞬間何が起きるか分からないし、何処で誰と出会うかも分からない。多くの中から選択されて一つが起こる。その状況に対する私の反応も私は選択可能である。今日の夕食に何を食べるかは私が選択できる。
第1象限に属する人の世界観は、外界は未知であり、そのポジティブ面はウキウキ、ネガティブ面は不安。私の内面の選択可能性は、ポジティブ面では選べる楽しさがあり、ネガティブ面では苦悩が生じる。なぜなら選択する余地が無ければ、受け入れるしかなく、悩む必要がないからだ。
敢えて言うと、仏教の世界観がこれになると思う。外界も内面もすべては未決定で、お互いの関係の中でお互いが決まっていく。
第2象限 外界の出来事は偶然、内面の反応は必然。多対1
私は世界に従属。外界は何が起こるか分からないが、起こった出来事に対して、私の反応はひとつに決まってしまう。ひとつに決まるのは、出来事に対する最適な解が一つしかないからだ。今日の夕食に何を食べるかの選択肢はたくさんあるように思えるが、実はもう決まっている。冷蔵庫にはいろいろ入っているが、今一番食べたいものはひとつしかない。状況が同じなら、同じ人がする選択は同じである。ある状況に対して私がする反応は必然、と言える。
つまり外界は混沌としているが、それに対する私の反応は決まっている。私の人生は目の前で展開する出来事次第。
第3象限 外界の出来事も必然、内面の反応も必然。1対1
厳然たる物理世界 。外界の出来事がひとつに決まるのは、私が外界を変えられないからだ。外界を私は操作できない。それは私にとって必然と同意である。それに対する私の反応も、最適解は一つしかないので、必然と言える。
外界で何が起こるかも物理現象、内面でどんな反応をするかも物理現象。どちらも選択の余地はない。
すべては決められていて、私はそのレールの上を歩く。
これはキリスト教のカルバン派が重視する予定説に近い。予定説はもう少し未来の内面の反応に開かれているが。
第4象限 外界の出来事は必然、内面の反応は偶然。1対多
世界は私に従属。外界の出来事に私は関与できないので外界の出来事は私にとって必然。その出来事に対して私はいろんな反応が出来る。私には選択できる。外界は私に一つの出来事しか提示できないが、その出来事に対して私は好きなように反応できる。
決定された外界の出来事に対し、私はその時々に選択をして楽しむ。イメージで言うと、初期のドラクエのようなもので、私が画面の真ん中にいて、景色が順に動いていく。しかしその世界はプログラマーによって既に書き込まれていて、決定されている。私はその時々に現れる敵と対面し、幾つかの選択肢の中から相手をクリアする道具を決定し、ゲームを楽しむ。