imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ おもてなしの精神と同調圧力 2023年6月

欧米の旅行者が日本を評価するとき、接客される時の気持ち良さを挙げる人が多いらしい。おもてなしのことだ。さもありなん、と思う。日本の接客態度は丁寧だし、客の要求にはその内容を問わず可能な限り応じようとする。サービス提供者に限らず、通行人も親切だと思う。道を聞けば丁寧に教えてくれる人の割合が高い。

 

さて日本のおもてなしを褒める欧米人旅行者だが、では自分もそんな文化のある日本に住みたいか、つまりサービスを提供する側になりたいか、と問われれば躊躇する人が多いと思う。欧米に、お客様は神様です、の精神はない。サービス提供者と客は対等である。ギブandテイクの関係だから当然だ。つまり自分が客として接客されるならいいけれど、接客はしたくないのだ。そりゃそうだ、と思う。何故不当な客の要求まで答えなければならないのか、何故意味なくこうべを垂れなければならないのか理解できないだろう。

 

欧米人を見ていると、自分なりの善悪の価値基準がはっきりしていると思う。それに抵触すれば、自己主張する。

 

翻って日本を見れば、申し訳ないが、自分なりの善悪の価値基準などない。あったとしても表現しない。周りに合わせるのみである。周りに合わせてやり過ごす。たとえ僅かであっても自己主張して周囲から浮くことを恐れる。同調圧力が強いのだ。

 

日本の同調圧力が強いのは以下の理由によると思う。

日本は外国から侵略されたことが少なく、大規模に異文化に接することも無く、長らく均質的な社会であった。つまり見知らぬ人と接しても、おおよそ自分と同じように振る舞うだろうと、予想が出来たのである。つまり幻想であったが仲間と思えた。だから誰と接しても仲間集団と接するように振る舞えたのだ。思いやりには思いやりで答えたのである。

前提が変わらなければ、合理的な行動だと思う。むろん多くの国でこの前提はない。

 

社会は1割のフリーライダーに耐えられない、というのが私の実感であるが、思いやりを踏み倒す人が社会に1割現れれば、なぜ俺だけ損をしなければなら無いのだ、と、みな雪崩をうって踏み倒す側にまわる、という予感がある。社会変質が起こると思う。道端のゴミ捨ても同じである。自分なりの価値基準が無いのだから、当然だ。お天道様が見てなければ、気にしなくていいのだ。

 

今まで日本を旅行する外国人は、物価が高いこともあって、ある程度お金を持った人が来ていた。つまり上品に振る舞う人たちだった。また日本企業や日本支社で働く外国人も一定の教育を受けている。日本人が持っている幻想の白人イメージが維持されたのである。しかし円が安くなり、政府が観光産業に力を入れた今後、普通の欧米人、外国人が来るだろう。

思いやりに思いやりで答える習慣などない。自分が主張して相手が譲ってくれるなら、限界まで主張することだろう。

 

中南米旅行を旅行して、つくづく思ったのは、次の人のことを思い遣る日本の習慣の有り難さだった。トイレに紙があれば、次の人のことなど考えずに全部持って帰る。トイレを汚せば汚しっぱなしで出る。公園で食事をすればゴミはそのまま。彼らにすれば自分もそうするのだから、相手がしても我慢する、ということだろう。仲間集団をミニマムにとった場合の合理的行動だと思う。私も中南米滞在中、ある意味快適だった。ただ社会全体で見れば、社会維持コストは高くなる。公共空間は利用されっぱなし、荒れ放題になるからだ。グアテマラで聞いた話だが、くず鉄として売るために、ガードレールや道路標識が持って行かれる、ということだった。

 

今回もまとまりなく書いてしまった。まとめる根気がない、というべきか。