imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 鍋 家族団らん 2023年1月

豚しゃぶか鶏すき焼きでも一人でゆっくり食べようかな、何を入れようかな、と考えていると、ふと子供の頃の家族での鍋の食卓を思い出した。鍋は父親のいる土曜か日曜日の夜の定番だった。これがもう煮えてるだの、もっとあれを入れてくれだの、みんなでワイワイとにぎやかであった。最後には必ずご飯を入れて雑炊を作った。最初から最後まで同じ味で食べ続けるのに飽きてしまい、私は鍋があまり好きではなかった。もちろん子供に選択権はなかったが。

 

そんなことを思い出していると、そもそも鍋は1人で食べる物じゃないのだ、と言うことに気が付いた。もちろん1人で食べてもいいのだが、鍋とは皆で楽しくお喋りしながら食べる料理なのだろう、と思う。同じ釜の飯を食う、の字義通りだろう。

今では一人用の鍋を提供する店もあるが、昔は一人で鍋を食べるなど、考えられもしなかった。

それほど個食が常態化しているのだと思う。

 

数年前、1人で外国旅行をしたことがあるが、インドやトルコで、何故一人で旅行しているのか、と聞かれることがよくあった。皆で行くから旅行は楽しいもんだろ、と。どうしても理解できない、という感じだった。

イスラム教は父権的で大家族志向である。ヒンズー教もそういうところはよく似ている。家族や血縁をとても大切にする。私が子供の頃はしばしば親戚と集まって食事したものだ。

50年前に1人で何ヶ月も旅行するなど、変人扱いだったろう。

日本では1964年に海外渡航が自由化されて、市民も外国へ観光旅行に行くようになった。私が小学生低学年の1970年代初頭、親戚でハワイ、台湾旅行に行く人が何人かいたが、皆家族と一緒に行った。1人で行くなど、それこそ何しに行くのだ、と思ったであろう。

 

日本では1人でいることに何の不自然さもない。1人で食べて、1人でテレビを見て、1人で散歩に出かけて当たり前である。1人でいることはストレスが少なく、快適なのだから。

共同体、仲間、家族が解体して、人々が孤立して社会と向き合っている。孤立した人々はストレスで鬱屈する。社会の基盤が不安定になり、住みにくくなる。

個人の快適さを求めれば求めるほど、人々は孤立し住みにくくなる。この傾向は人々が便利さを求めている限り止まることはない。そして人は今後も便利さ、快適さを求め続けるだろう。

 

 鍋から始まった連想ゲームだが、私の娘が中高年になったとき、日本がどんな社会になっているか、見当もつかない。間違いなく今よりも住みにくい世の中になっているであろう。