imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 懐メロの前提 世代の断絶 2023年6月

なごり雪”というイルカの曲がある。今では懐メロになっている。

 

https://youtu.be/q0gEn0Q7QX4

 

その歌詞に「ふざけ過ぎた季節の後で」という部分がある。1960年代前半生まれの私には、こんな風景が浮かぶ。

いつもつるんでる仲間たちと大騒ぎをしているのである。場所は下宿屋の薄い壁で仕切られて、となりの部屋の物音が筒抜けの部屋である。そこで深夜まで飲んで唄っての大騒ぎの場面である。

 

たぶん今の20代の人なら全く別の場面を想像してこの曲を聴くだろう。

私の親の世代、1930年前後に生まれた人は、また全く別の場面を想像するはずである。もしくはこの曲自体を評価せず聴かないかも知れない。

 

つまりこの曲を作ったかぐや姫伊勢正三や編曲した松任谷正隆が前提としていた文化は限定された時間の中でだけ存在したので、それを知らずに育った人たちは全く別の文脈でこの曲を聴いているのである。同床異夢。

 

更にタイムスパンを長くとれば、例えばクラシックである。バッハ(1685~1750年)は神の存在を心から信じていただろう。その神に捧げるために多くの曲を書いた。神を称揚するために曲を書いたのである。

しかしその前提は今の多くのヨーロッパ人にはない。もちろん日本人にもない。前提が変わってしまったのである。バッハが作った曲の前提を今の私たちは共有できない。

つまり全く違った文脈で曲を聴き、評価しているのである。

 

もちろんことは曲に限らない。文学然り、映画然り。世代が違えば、立っている場所が違うのである。共通感覚の喪失。意思疎通の不可能性。

 

かつては科学技術の進展がゆっくりであった。故に価値の変容も穏やかであった。つまり世代が1つや2つ違っても同じ前提に立てたのである。同じ土俵で話が出来た。

 

今「ポテトチップスと日本人」という本を読んでいるが、その中に、”今の10代には、スナックのパッケージがダサい、買うのが恥ずかしい”と感じている人たちがいるそうだ。中身ではなく、パッケージである。私には理解不能である。

 

親の世代の言葉が子の世代に伝わらないのである。子供の言葉が親に伝わらないのである。これをどう考えればいいのだろう。

 

以前、少数民族言語の本を読んだことがあるが、親が使っていた民族語で子供を教育すると子供が不利になるので、国家語で子供を教育した結果、民族語を知らない子供と民族語しか知らない祖父母が意思疎通できなくなり、祖父母がとてもさみしい思いをする、という記述があった。

これと似たようなことが世界で同時に起こっているのだと思う。使う言語は同じなので、意味不明感は露出しないが、同じ単語を使って全く別の風景を見ているのである。それぞれが自分の都合よく解釈しているので、適当な会話をしている分には何の齟齬も表出しない。

ところがいざ本気の話をしようとすると、前提が違って、話が合わない。説明が必要になる。故に疲れるので、お互い疎遠になっていく。

これが祖父母と子、親と子の間で生じているのである。

 

もちろんこれは健全な状態ではないだろう。何か対策があるのだろうか。いま私に思い付くことは、会話を絶やさないようにして、常に前提を微修正することぐらいである。こちらも相手を理解することに努め、つまり相手の前提を理解することに努め、その結果として、相手にもそのような気持ちになってもらうことである。

大変な時代になっている、と思う。