imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

前提と文脈 住みよい社会と共通前提

表現されたものの裏には表現されてないものの存在が必ずある。だから表現されたものを理解するのは難しいのだ。表現されたものだけでその内容を理解すると、表現者との齟齬が生じることになる。

 

ではなぜ表現者は充全に表現しないのか。それは以下の理由があるからだ。

1 前提     表現者が、受け手との間で共通の前提になっている、と思っていること、言うまでもないと思っていること、は表現しない。前提は基本的には常識に依存している。

例えば表現者が、「明日どこに行く?」と友達にひとこと問いかけた時、そこには多くの前提が隠されている。これからも生きていくでしょ、という前提。生きていくなら人生を楽しく過ごすでしょ、という前提。明日もそうするでしょ、という前提。明日は私とお出かけするでしょ、という前提。そのお出かけは泊りの旅行ではなく、日帰りでしょ、と言う前提、等々。

 

表現者と受け手のそれぞれの前提が完全に一致することはない。経験が違うのだから当然である。なので齟齬は必然である。会話であれば、会話が進むにつれて、齟齬の原因を探り、自分の仮定していた相手の前提を修正していく。共通前提の構築である。

ちなみに理解力とは、相手の考えている前提を察知する能力に長けていることだ。

 

2  文脈   表現者の価値に反するので、あえて言わないこと、は表現しない(正確に言えば、前提も文脈に含まれると思うが、ここでは前提を除く)。価値とは、美意識であったり、損得であったりする。(前提なら、繰り返しの煩わしさを避け、スマートに表現すること、になるだろう)

文脈は価値に依存するので、前提と比べると、人によってその差が大きい。損得故にあえて言わないのは想像しやすいが、美意識故にあえて言わないのは、その人のことをある程度知っておかないと分からない。

 

前提について  

 

自分にとって理解不可能だと思われることを誰かが表現・実行したとき、自分とは異質な奴だ、で終われば、第一印象で作った共通前提の理解で終わることになる。しかし自分とは違う相手のある経験を知って、もし自分がその経験をしたらどうなっていただろう、と想像した時、共通前提は少し積み上がることになる。つまり相手の理解が少し深まる。この作業の繰り返しによって、理解不能な奴が、自分とそれほど違わない奴、に変わっていく。共感が可能になっていく。

 

共感可能性が上がったからどうなんだ、何か意味があるのか、と言えば、理解不可能な奴に対しては、共感が湧かないがゆえに、無慈悲なことが出来るが、自分とそれほど違わない奴に対しては、前者に比べて共感できるので、無慈悲なことがしにくくなる。

ある人から見れば、自分は理解不能な奴に見える可能性があるので、共感可能性が社会全体で上がれば、結果として自分が住みやすい社会になるのだ。

 

世間を賑わす事件がひけも切らず起こっているが、共通前提を積み増して、理解不可能な奴、を、自分とそれほど違わない奴、にしておかないと、ますます住みにくい社会になると思う。

実際、ほぼ同じ遺伝子を持ち合わせ、同じ文化で育ったヒトである。

皆ただの人間なのだ。同じ刺激には同じような反応をするはずである。違うのはただ経験だけだ。