imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

生物としての人間と社会的動物としての人間と 戦争・核武装

生物としての人間から言えば、とにかく人殺しはだめでしょ。どんなことがあっても避けなければならないと思う。どんな理由があろうとも戦争はだめでしょ。国家が全力で人殺しはだめでしょ。

これが現代に生きる私たちの心情だと思う。その現場に立ち会えば、心の底からそう思うはずだ。

 

社会的動物としての人間はどう考えるか。

例えばロシア市民は、どうすればロシアの安全が確保されるかを考える。繰り返し西ヨーロッパから侵攻され、膨大な被害を出してきた記憶から、NATO加盟国と直接国境を接することには過剰に神経質にもなるだろう。ウクライナを中立にしておいて欲しかったのに、まだNATOに加盟していないにもかかわらず、アメリカ・イギリスが軍事支援をして着々とウクライナ軍を増強していた。このままいけば、ロシア側に帰属した2つの共和国の確保どころか、黒海の権益を失うかもしれない。それはロシアにとって死活問題である。

ロシアの安全の為に武力行使してでも、ウクライナの中立を確保しなければならない。

圧倒的に強大と思われるアメリカと対抗するためには、ロシアにとってこれはやむを得ない選択である、とロシア市民が考えてもおかしくはない。

 

生物としての人間としては、核兵器などとんでもない、と思う。それを使用すれば、どんな悲惨なことが起こるか、おぞましい風景が浮かぶ。

 

社会的動物としての人間はどう考えるか。

もし核兵器が無ければ、攻撃への抑制がかかりにくいので、大国同士で戦争が起こりやすくなるだろう。小競り合いはあるが、核保有国同士での戦争は現に今まで起きていない。

日本はアメリカの核の傘に守られていることになっているが、本当にアメリカは日本の為に核を使用する決意があるのだろうか。そのことを仮想敵国は気づいているのではないか。他国に攻撃・侵略されないように、日本の安全保障を自立的に考えれば、日本も核武装する必要があるのではないか。

 

さて、日本にも、核武装論者が勿論いる。非武装中立論者や非核論者に対して、何を甘いこと言ってんだ、的な態度をとる人もいる。

 

私は思うのだけど、社会的動物として、仲間を守るためには戦争や核武装などやむを得ない手段を取ることも辞さない、という考えを表明するのはいいのだけれど、その前に生物としての人間として、本音を言えば人など殺したくない。苦渋の選択として、以下のことを提案するのだ、と言うことを付け加えて欲しい。

そんなことは前提だ、と言うかも知れないが、戦争肯定派・核武装論者の一部には、まるで非武装中立論者や非核論者にマウントを取って喜んでいる、ように感じる人もいる。

 

一個の生物として、苦渋の選択をしているのだ、と言うことを表現して欲しい。でないと、勇ましいことを言って、カッコいい、と勘違いする人たちが出てくる。