imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

自分の損得に支配された人生

ふと自分のしていることを振り返ってみると、ほぼすべての時間を自分の損得のために使っていることに気付いた。

例えば、、、美味しいものが食べたいなぁ。明日の献立は何にしようかなぁ。いつもと違ったものがいいなぁ。鶏肉と豚肉のどっちにしようかなぁ。どんな調理法がいいかなぁ。

例えば、、、いいテントが欲しいなぁ。どんなタイプがいいかなぁ。メーカーはどこが信用できるかなぁ。

テントを買ったけど、何処に行こうかなぁ。マップで調べてみよう。

例えば、、、安くで腹筋ローラーを買いたいなぁ。どのサイトで買えば安いかなぁ。もしかしたら中古で売ってるかなぁ。メーカーはどこが信用できるのかなぁ。

腹筋ローラーを買ったから、これから毎日10分ほど時間をかけてやってみよう。

例えば、、、利他行為について、何かいい本が出版されてないかなぁ。図書館で検索したら何か出てくるかなぁ。ブックレビューのサイトで何か出てるかなぁ。

本を手に入れた。この一週間で読んでみよう。

例えば、、、今度西アフリカに旅行に行きたいんだけど、フランス語圏が多いから、フランス語を勉強をしよう。どうやったらいい本を探せるかなぁ。図書館に初心者用の本はないかなぁ。

簡単なフランス語の本を借りた。これから毎日練習をしよう。

 

私が起きている時間で、自分の損得以外のために使っている時間はほぼゼロである。何というセルフィッシュな人生か。自己認識を大幅に超えてセルフィッシュである。

 

もし私が自分の損得にこだわるのを半分だけ諦めたら、膨大な時間が生まれることになる。

 

もちろん生きていくために、食べることや、寝ることは考えなければならない。しかし不必要に自分の損得について考えすぎているように思う。なぜこんなに時間をかけて、自分の損得のことばかりにこだわっているのだろう。

 

それは自分と外界とのギャップが大きすぎて、不快・不安が強く意識されているのだと思う。外界とのギャップが大きすぎて、何とかそれを埋めようとして、過剰に損得にこだわっているのだと思う。もし不快・不安を半分受け入れられたら、損得の時間の半分を解放することが出来るだろう。膨大な時間が空くことになる。

 

ではその時間を何に使うのか。もちろん損得のために使っては元も子もない。学習や、自己向上の為に使ってはならないのだ。では何に使うのか。外界とのギャップを埋めるためである。つまり平安な気持ちで満たされるために使うのである。具体的には、何もせず穏やかな気持ちでいるのである。

 

このことが私という存在を受容する根源的方法だと思う。