日本で、欧米人に接する日本人を見ていると、腫れ物にでも触るように気を遣って、へり下って、最大限の愛想笑いを浮かべて接する人たちを見かけるが、彼ら欧米人は私たちとは何か違うものを備えているのだろうか。
皆が知っているように、もちろん答えは否である。その根拠はどこに表れているか。彼の国にしばらく滞在すれば、答えはすぐに見つかるだろう。立派な人もいれば、そうでない人もいる。立派な人も常に立派ではない。立派な人も多くの欠点がある。日本人と全く同じだ。
では日本に居ながら答えを探せるだろうか。もちろんイエスである。近代史だけを見ても彼らがどんな人たちだったかは明らかである。中南米での侵略の中で、だまし討ちは日常だった。過酷な収奪は日常だった。
しかし現代では、人権意識の高い立派な人々になったのではないのか。彼の国の外交を見れば答えは明らかである。自国の利益、自国の企業の利益を確保するために、イランで、チリで、民主的に選ばれた政権をクーデターで転覆させた。中国政府の人権弾圧には経済制裁も含めて強く反応するが、サウジアラビア政府の人権問題にはせいぜい口頭注意の及び腰である。パレスチナに対して、明らかに犯罪行為を犯しているイスラエル政府をアメリカ政府は支持し続けている。
以上の主体は国家である。しかし国家は民主選挙で選ばれた人たちの集まりである。以上の行動を是認する人たちが多いことには変わりがない。そしてもちろん反対する人たちもいる。立派な人たちもいるだろう。それは日本と同じである。
欧米人にはへりくだる日本人のうんざりするところは、アジア人を見下す情けないところである。当たり前だけれど、アジア人に見下される何か特別なところはなく、日本人と同じように自分のことばっかり考えているただの人間である。もちろん立派な人たちもいるだろう。ただそれだけのことだと思う。
私がつくづく実感したのは、外国旅行に行ったときである。多くの外国人旅行者も見たし、多くの国の人々も見た。そして思い至ったことは、日本人と同じように、みんな自分のことばっかり考えているただの人間だった、ということである。そこに白人や黒人の別はなかった。皆セルフィッシュなただの人間だった。もちろん一目置く人たちにも会った。しかしそこに特に国籍の偏りはなかったと思う。