imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

存在の不安について 何のために生きているのか 後半

存在の不安とは具体的には

1なぜ生まれてきたのか

2何のために生きているのか

これに尽きると思う。

向き合いかた

1 宗教の助けを借りる

宗教は世界の外側(文末参照)からの回答を提示できる。 故に、なぜ生まれたのか、何のために生きているのか、という答えを用意できる。 故に宗教は存在の不安を解消し得る。

2 科学の助けを借りる

科学は世界の内側(文末参照)しか提示し得ない。

宗教の助けを借りずに存在の不安に向き合えるか。以下科学の助けを借りた場合について考える。

1 なぜ私は生まれたのか

科学からの回答は、偶然、である。 ある恒星が爆発し、それが冷え固まった中の1つとして地球が誕生して、アミノ酸が宇宙から降ってきて、生命が生まれ、紆余曲折の進化があって、 隕石の衝突で恐竜の絶滅が起こり、その隙間に哺乳類が入り込み繁栄を始め、2度の出アフリカを経て、3万年ほど前に日本列島に人がたどり着き、紆余曲折の出会いがあって、私の両親が知り合った。 どこをどうひっくり返しても偶然という要素しかない。

2 何のために私は生きているのか

科学からの回答は、生きていることに理由はない、である。 目の前を歩いているこのアリの生に理由はない。生まれたから、ただ生きているだけだ。

以上、科学が提示する回答では、当然だが不安は解消しない。 荒涼とした風が吹いている。

しかし科学が提示したこの世界を、私たちは読み替えることができる。

1 なぜ私は生まれたのか、の読み替え

科学からの回答は、全くの偶然、である。 一億年前に戻って1億回やり直しても、今と全く同じ状態をここに再現できないだろう。それほどの偶然なのだ。 しかしそれは私から見れば奇跡である。 今の私が、今の人間関係のなかで、ここにいることは奇跡なのだ。奇跡の存在として今の私がある。つまり奇跡の存在として私は生まれたのだと読み替えるのだ。

2 何のために私は生きているのか、の読み替え

科学からの回答は、理由はない、である。しかし奇跡の存在としての私を知ってしまえば、私の成すこと全てが奇跡である。 私は日々奇跡を紡ぎ出しているのだ。もちろん私の死後も、私が紡ぎだした奇跡は奇跡を生み続けるだろう。

多くの紡がれた過去の奇跡によって私が生まれ、その私、が紡ぎだした奇跡は、私の死後も奇跡を生み続ける。もちろん私の目の前にいる人も奇跡の存在だ。

大きな奇跡の流れの中の一部として今の私があるのだ。つまり刻々と奇跡を生み出し、奇跡の後世を創っていくために私は生きているのだ。奇跡の橋渡し。

さらなる一歩

そもそも私が今ここにいること自体が奇跡だ、ということが分かれば、全く自由に生きていいと思う。 何に遠慮することなく奇跡を満喫していいのだと思う。



世界の内側と世界の外側

世界の内側とは知覚世界のことで、感覚器官を通して知ることができる世界のこと。科学で証明できる世界にほぼ相当する。

世界の外側とは、その隣りに予想される世界のこと。 具体的には、超常体験世界や非日常世界、超越的存在(神など) のことだ。科学で証明できない世界のこと。

社会とは世界の内側で、かつ人間関係のある領域のこと。