いくつかの前提
聞き手と主人公の関係 近ければ(ex.体験談)臨場感が強いので、内容自体はあまり問われない。遠ければ(ex.辿れない先祖や隣村の夫婦)聞き手は臨場感を持ちにくく、興味が湧きにくいので、惹きつける内容が選ばれる。
既知の場所と未知の場所も同じ関係にある。
つまり関係が遠ければ、冒険話・都市伝説・昔話など興味を惹く形態をとらざるを得ない。
話し手と主人公の関係 話し手が話の主人公から直接聞いた場合と、伝聞で聞いた場合も同じことが起こる。伝え聞いた話は臨場感が弱いので、物語は陶冶される。
物語を生むいくつかの力 抑圧されたものの日常生活への回帰
1 血の記憶の喪失 辿れなくなった先祖が例えば無縁墓を生み、断絶して弔う者のいない死者が意識されることによって、喪失した血の記憶がよみがえり、日常を脅かす。封建的な家父長制を疎んじる価値の台頭のもと、農村共同体の解体過程で起こる。
また血の記憶の喪失は、先祖を辿れず自らの由来が不明になった者に不安を呼び起こす。
2 土地の記憶の喪失 先住共同体がある場合は、先住共同体の記憶・価値が新住民に軽視・無視され、故に物語を喪失した記憶の無い土地に新住民は無意識に不安を抱く。農村共同体が新興住宅地に侵食される過程で起こる。
2’ もとから住んでいた先住共同体なしの場合 記憶の喪失はそもそもない。それまで人の住んだことのない土地を開拓するとき、そこにいる精霊を鎮めるために地鎮祭が行われる。社会の外側(精霊)との交流がある。
3 贈与・利他の記憶の喪失 家族・氏族社会の原理の1つだった贈与が定住社会の中で喪失され、交換原理、つまり利他行為に駆逐される中で、抑圧された贈与が楽園イメージとして日常に呼び起こされる。
ある歴史社会に存在した物語の型は、それ以降の社会で存続し続ける。例えば噂話は狩猟採集社会から存在し、大規模定住社会の現代まで存在する。その逆は無い。
例えば昔話は大規模定住社会になって初めて姿を現したが、それ以前の社会では存在しえなかった。
以下、物語の型の説明
日常の体験談 体験者である話し手と、聞き手の間で共感と承認のやり取りが行われ、一体感を強化する。会話の最初期から存在する物語。親密な共同体の中でやり取りされる。サルのグルーミングに相当。
噂話 共同体の中にいる人の噂をする。会話をする両者の間での親密さの確認。ある人を疎外することによって共同体の中のより小さな仲良しグループを確認。実際に血の繋がりのある氏族集団で存在。
伝説・伝承 共同体メンバーの辿れる先祖が主人公で、舞台は共同体の内側。
1 辿れる先祖が主人公の場合
氏族共同体で成立。過去から現在までの共同体の継続が意識され、時間を超えた共同体への一体感を強化。血の記憶による、共同体の過去から未来までの意識化。先祖に感謝し子孫のために生きる動機づけを与える。
2 物語のテーマが人よりも特定の土地に重きを置く場合 例えば村の池や泉、橋など。
血族関係の定かでは無い人たちが共同体を構成しているとき、血族関係を超えて、同じメンバーであることの確認。土地の記憶による、共同体の過去から未来までの意識化。
1の物語のほうが早く成立した。
神話 主人公は辿れない(空想の)先祖。舞台は実際に存在する特定の場所。世界と共同体の関係を説明する。共同体とその外側が一体と感じられる社会では成立しない。
かつ神話は共同体の外側を記述するが、その動機は、自分たちではどうしようもない日常的に起こる不条理な出来事を納得するため。病気やケガ、死、大雨、動物や人からの攻撃。
神話における世界と共同体の関係は、血の記憶における先祖と個人の関係に相似。
ーーー 血縁関係のある氏族社会からその連合体である部族社会に移行したとき、それまでの氏族社会の氏神信仰から、その連合体をまとめる為の象徴として物語が創られる。それが氏神信仰から転化した部族の宗教だと思う。ーーー
昔話 主人公は、話し手・聞き手にとって未知、かつ場所も未知。伝聞で伝わり、親近感を持ちにくい話なので、心に響く物話に陶冶されていく。具体的には、無意識を刺激する、非日常の世界を描写。大規模定住社会はその成立のために多くのルールを人々に強いた。多くの不自由なルールに縛られた人々がその外側を求めた。無意識へ抑圧されたものが意識に回帰。
冒険話? ここは考察中 主人公は、話し手・聞き手にとって共同体の外側、かつ場所も共同体の外側。隣接した共同体の"凄いやつ"の話。遊動社会?または定住社会で成立。
都市伝説 主人公は未知、舞台は既知。農村共同体が伝えてきた土地の記憶が、新興住宅地化する中で、土地の伝承が途絶えたとき、外来住民の中で発生。自分たちの住んでいる場所の由来の分からなさが都市伝説を生む。人口流動性の高い社会で成立。
考察 または独り言
血の記憶や土地の記憶を人は気に掛ける。それは自分の由来、自分が何者であるかにこだわるからだ。何故それにこだわるのか。自分の存在が不確かに感じられるからだ。そこには存在の不安がある。果たしてそれは遊動社会からあったのだろうか。神話は世界と共同体を時間軸でつなぐ役割を果たす。そのことで共同体に安心をもたらす。また世界の成り立ちを説明することで、不条理な人生に折り合いをつけさせる。ブッシュマンには神話は確認されていないが、ヤノマミにはある。ブッシュマンは多くても100人までのバンドで暮らしているが、ヤノマミは200人以上の共同体をつくることがある。この共同体構成員の数の違いが、掟の縛りの数に関係し、それが個人の存在の不安に関わって神話を生み出すのかも知れない。自然に仲間と思える数の上限、つまりダンバー数は120~150人だ。200人はある種の我慢を構成員に課す。
しかし私の感覚で言えば、僅かな掟で暮らしている狩猟採集民が存在の不安を強く感じる必然性があるとは思えない。もしかしたらスペイン人入植者と過去に接したときに、ヒントを得たのかもしれない。だとしても神話が存続する為にはそれを必要とする下地、つまり共同体側の欲求が必要だ。
だとしたら、社会にとっての神話の位置づけは、不条理な世界を記述する為だけにあるのかも知れない。