特に詳しいという訳ではないが、私は漢詩が好きである。例えば唐詩選の最初の詩、述懐 作者は魏徴で、最期の4行が共感できる。
季布無二諾 候エイ重一言 人生感意気 功名誰復論
読み下し
季布に二諾無く 候エイは一言を重んず 人生を意気に感じ 功名を誰か復た論ぜんや
意味は、季布も候エイも人の名前で、相手に対し誠実な人柄で有名だった。人生とは相手の意気(利他)を感じるもの。そうであれば、功名(利己)などいったい誰が問題にしようか。
白文でそのまま読んでももちろん良いのだろうが、日本語で読み下しても、雰囲気が伝わってくる。漢字には意味がある、つまり表意文字なので、文章から意味が伝わってくるのはもちろんだが、読み下した時のリズムもなぜか良い。
多くの漢詩には清冽さがあるように思う。現象の向こうを意識した諦念のようなものだ。そこに私は惹かれるのだと思う。その理由は、漢詩を書いたのが官僚志願の知識人で、かつ官僚としての身分の不安定さが漢詩の基底にあったのだと思う。
若い頃、イェーツだったかキーツだったか、の詩を原文で読んだことがあったが、一つ一つの単語の意味は辞書を引けば分かったが、どうにもイメージが湧いてこなかった。砂を噛むような概念の羅列だったのである。
で、もちろん日本語訳も読んだのだが、味もへったくれもなかった。思わせ振りな言葉がはめ込まれ、こけ脅しのニセ哲学のように感じたものだ。
小林秀雄が訳した有名なランボー「地獄の季節」も読んだが、一体これにどうやって共感するのだろう、と思った。共感する以前の話で、何を言っているのかさっぱり理解できなかった。これを評価している人達はどれほど頭のいい人たちなんだろう、と若かった私は思ったものである。
と言うような経験を経て、漢詩以外の外国の詩は読まなくなった。邦訳の詩は、オリジナルとはもう全く別物である。
という訳で、平安文学を日本語で読めるしあわせを私は感じる。「伊勢物語」(昔おのこありけり、で始まる和歌文学だ)の静謐な世界が好きだが、外国語に訳してしまうと、あの世界が失われてしまうと思う。